年月は経過しても。
変わらないものは、あんまり変わらないのかなって。
与謝野晶子の詩歌は、いまの感覚で読んでも驚くような、
エロティックなものがおおい。
でも、そういう詩歌を生み出す背景は、本当に窮屈なものだったんだなって。
葛藤するもの、戦うべきものみたいなものが、はっきりあったなかで、
搾り出されるものなんだなって。

私は曩に「太陽」誌上で、私の貞操は道徳でない、私の貞操は趣味である、信仰である、潔癖であると云ふ意味のことを述べました。趣味や信仰や潔癖は他に強要すべき性質のものでありません。さうして私が私の貞操を絶對に愛重して居るのは藝術の美を愛し學問の眞を愛するやうに道徳以上の高く美くしい或物――假りに趣味とも信仰とも名づくべきものだと思つて居ます。若し貞操を道徳と云ふ名の下に實踐しようとするには、前述の疑惑を解決して何人に強要しても矛盾の無いことが徹底的に明白になつた上でなければ私は十分に滿足が出來ません。重ねて申します、私は貞操を尊重することを何人にも讓らないために敢て此一文を書きました。(一九一五年十一月)