最近、この言葉を意識する。

通貨 食品 日常生活品

例えば、英語の勉強

中学校と高校で勉強する内容。
おそらく、日本で英語の義務教育が始まって以来、
あまり、かわっていないだろうと思う。

だから、大学生のアルバイトに英語の家庭教師もつく。

でも、本当に実力のある講師は、このCommodityを
魔法をつかって、何か、新鮮なものに見せる。

Web進化論なども、そういうものなのかもしれない。

受験指導業界のカリスマ、おそらく、受験業界の老舗の
「梅田望男」なのではないかと思われる、和田 秀樹さんが
自ら、資本を投下して、「受験のシンデレラ」という映画を
つくりました。

映画「受験のシンデレラ」:東大受験目指すカリスマ教師と少女の物語

山本さんは、この映画で、貧しい少女が東大に入ることで、人生が変わるとい
う価値観
については、はっきりと「どうなのかなあという気がするんですけど」
と否定的な見解をもたれていたようだ。
確かに、東大に行くことで人生の成功者になる保証はできない。そんな甘いも
のではない。ただ、この高校中退の貧しい少女の人生の選択肢を飛躍的に増やす
ことは確かだろう。

和田氏のこの発想と、梅田氏が「Web時代の5つの定理」で強烈に鮮明する
Visionaryの発想は、根源的なところで同じなのではないかと思う。
梅田氏のそれが、「洋食」なので、ちょっとピンとこないかもしれないが、
和田氏のそれが、「日本列島の伝統産業」から、わかりやすく、立身出世の
発想が、表明されている。
この生々しさは、以下の文章などでも劇的になってくる。
梅田氏の提言が、ヨウモノであるがゆえに、生活感が排除されて、
いまひとつ、リアリティに欠けているのと、正反対かもしれない。

『機会不平等』という本の中で、著者の斉藤貴男氏が、ゆとり教育の答申を行
った教育課程審議会会長の三浦朱門氏に、つめよる場面があった。「こんなこと
しか、公立学校で学べなくなると、私のようなくず鉄屋の子どもは、私のように
新聞記者になれなくなる」
これに対して、三浦氏は「それはあなたが、くず鉄屋より新聞記者のほうが上
だという価値観をもっているからだろう」
と答えた。斉藤氏は「私はいつでもく
ず鉄屋に戻れるが、新聞記者もできる選択肢がほしいと言いたいだけだ」と反論
した。

このやりとりが、行われているときの、現場の空気の苛烈さをご想像できる
でしょうか。私は、読んでいるだけで、汗が出そうになりました。
政治というものが、突き詰めたとき、どういう問題に直面して、決断を下して
いく必要があるのかということが、すさまじいまでの鮮明さで現れている。
そして、この斉藤氏と、三浦氏の対立軸が、そのまま、いまの
右と左を決めているといってもいいのではないかと思いたくなる。

「東大なんかで出たって」というのは、簡単だ。
しかし、その言葉を真に受けた人間は、確実に損をする。東大卒のありがたみ
がわかっている人間は、子どもに、「こんな大人のことばに騙されると損をする
だけ」と教えるだろうし、庶民の人たちは、高学歴者へのルサンチマンもあって、
それを真に受け、子どものチャンスをつぶす。これが、これまでのマスコミのや
り方だ。実際には、マスコミの人間は、自分の子どもは名門私立学校にやり、東
大にやることも多い。
<<

和田氏の恐ろしいところは、アカデミックな議論でも思いっきり切れ味があるのに、
こういう生活感に満ちたことでも、エグイことをガンガン書くことである。
医学者のリアリズムって、こういうものなのか。

後だしじゃんけんのように、後書きでモナさんは、こうも書いている。

「彼らの身近にいて私が感じるのは、本当に頭の回転が速いなあということ。
私なんかより、よっぽど、『頭がいい』んですよ。受験テクニックを駆使して日
本の最高学府に入学することと、大学に進まずメディアの世界で活躍することは、
どちらが良い悪いということでもない気がするんだけどなあ…」

そう、夜、東京のオシャレな街で恋人と、ツーショットで、アツアツの
キスをしているところを、タブロイドに激写されている女性の意見が
スタンダードになるというのは、確かに、なにがしかのゆがみがある。
ひょっとしたら、モナさんには、圧倒的多数の人間にとって、労働とは、
「取材」という名前の「対話」ではなくて、
「工場における正確迅速な作業」なのだという発想が気迫なのかもしれない。
軍事組織における、戦闘能力のある兵隊かどうかということを、

測定するとき、一体、その兵士の何を測定するのか?
ハイテクの武器を使うことが出来るのかどうか?
ハイテクの武器を、作ることが出来るのかどうか?
インテリジェンスが出来るのかどうか?
サバイバル能力があるのかどうか?
作戦・立案能力があるのかどうか?

こういった能力がそのまま、「オフィス」「工場」という空間において、
企業や、官庁の利益率最大化をどこまで達成できるかどうかを決める
決定打になっているように思う。
夜の町で、恋人とKissをした写真を販売することで売上げを立てる
過程においてすら、

山本モナが付き合っている恋人は、どんな人か?」
「このカップルは、どの時間に、どこにいけばパパラッチができるか?」
「どれくらいの大きさの記事として、扱えば、発行部数が伸びるか?」
「どんな情報を付加価値として、加えると記事が面白くなるのか?」
「競合他社に先駆けて、モナのKissシーンを撮るには、どうすればいいのか?」

という、軍事的能力が要請されている。

山本さんのような人や、あるいはテレビに出ている人の頭のよさに感激する人
は、陸上でいえば、短距離の速さこそが、人間の速さと考える人なのだろう。
私の立場は、もう少し作戦を練ったり、あるいはトレーニングで鍛えられる頭
のよさである。
山本さんからみて、私は「トロイ奴」だったのかもしれないし、一生、テレビ
的な当意即妙な受け答えの術は身につかないかもしれない。
ただ、そのような思い付き的な頭のよさが、いろいろなものを生み出していた
り、政治をよくできるのかについては大きな疑問がある。

和田氏のこの記述は、アメリカだったら、シリコン・バレーで起業して
富豪になっているような、よい子、梅田氏のいう「上」の子のメンタリティの
結晶かもしれない。

テレビタレントの人はセールスなどには向くかもしれないが、何かを発明する
とか、世の中のためにプロダクティブなものを作れるのかは疑問だ。日本を支え
てきた『プロジェクトX』的な努力とは関係ないジャンルの頭のよさなのだろう。

テレビというメディアで、どういうことが起きているのか、興味深い。
ただ、テレビの視聴率が確実に落ちていることを考えたら、もうテレビの感覚は
実社会では死んでいるといえるのかもしれない。

しかし、残念ながら、テレビ的に頭のいい人のほうが、はるかに収入も多く(も
ちろん、
民放に出ているということは、彼らのギャラは商品の値段に転嫁されて
いる)、はるかに尊敬される。

世の中には、医者、弁護士、政治家、公認会計士、企業経営者と
いった金持ちもいる。こういう人間が、関わる取引のオーダーは
人気タレントのギャラの桁とは違う。
和田氏は、モナ氏に反対の意思を表明しているように思えるが、
ここで、モナ氏と同じような錯覚に陥っている。

そのアメリカでも、努力の大切さが謳われ、かつての日本に見習った教育改革
が行なわれている。
テレビがなくても、日本は破滅しないが、努力型秀才がいないと日本はもたな
い。
テレビ的才能は、一般には努力でなかなか身につかないが、東大に入るのは、
『正しい方向』で努力すれば、かなりの確率で近づくことができる。
テレビ的才能では、ごく一部の人しか、一生食べていけないが努力型秀才は、
一生食べていける。
テレビ的才能で短期間でも食べていける人は数百人のオーダ
ーだが、努力型秀才は、年間10万人くらい、一生食べていける人を生み出してい
る。
<<

和田氏が、日本最良のCommodityの擁護者であることが、感動的に
表明されている。
これからの日本政治の争点は、すべて、この一点に集約されて展開されるのでは
ないかと予測する。