プリンセス雅子よいね。よいね。

皇太子妃殿下お歌 
制服のあかきネクタイ胸にとめ一年生に吾子はなりたり

Her Imperial Highness the Crown Princess
With a red necktie on her uniform, my daughter has become a first- grader.

(Background of the poem)
Last spring, Her Highness Princess Aiko entered Gakushuin Primary School. This poem expresses Her Imperial Highness's joy and deep emotion at her daughter's first step as an elementary school pupil with a red necktie on her new school uniform.

政治というプロセスは、代表者が、選挙した人の「イイタイコト」を聞いて、
そのリクエストを、政策や予算配分という形で実行するという側面がある。

歌も、作った人の「イイタイコト」が凝縮されているのではないかと思う。
政策や、予算配分というものに直結するリクエストにはならないかもしれない。
でも、その人の、プライベートで、オリジナルな側面がずっと強烈に出てくる。

もし、この説明の仕方に一定の合理性があるのなら、
日本国憲法に基づいて、選挙された国会議員および、公務員は
政策と予算配分に直結するリクエストを聞くのが仕事になっており。
日本の天皇陛下は、「心が発するイイタイコト」を受け止め、
そして、自らも、「心が発するイイタイコト」を発信する。

立憲政治、つまり「明文化されたルール」に基づいて、政治プロセスが進むかどうかは、
「政治家」が、「国民」信頼されているかどうかによって、きまる。
では、その「信頼」の実態は、いったいいかなるものなのか?

短歌や「歌」に表出されるような「リクエスト」「心が発するイイタイコト」は、
政策や予算配分に結実する「リクエスト」を凌駕することがあるかもしれない。

「国民」は、「自分のイイタイコト」を受け止めてくれる人間を「信頼」すると
仮定しよう。
永田町と霞ヶ関の政治プロセスを動かすリクエストを発することができる
人間は、思ったより多くないかもしれない。
そのリクエストを発信しようとした場合、
法学は必要になってくるだろう。
経済学は必要になってくるだろう。
政策を動かすもろもろの専門知識も必要になってくるだろう。

逆に、こういった「付属品」がないリクエストは、簡単に「衆愚政治」に突入することを
許す。

しかしながら、こういったリクエストを発信するために必要なことが多いということは、
ただちに、
「リクエスト」を出すことができる人間の数に限定を加えることになる。

「心が発するイイタイコト」を発信するのに、以上のようなリクエストを発する参入障壁に
なるようなものは、ない。
ただ、日常生活に使っている言葉だけがあればよい。

そして、「心が発するイイタイコト」は、「政治的リクエスト」よりも何倍も
その個人の生活を突き動かす。

御製(天皇陛下のお歌) 
生きものの織りなして生くる様(さま)見つつ皇居に住みて十五年経(へ)ぬ

選 者 篠  弘
われよりも生き長らへむ古書店にわが若書きの小著が並ぶ

千葉県 出口由美
生命(いのち)とはあたたかきもの採血のガラスはかすかにくもりを帯びぬ

栃木県 阿久津照子
角膜は賜はりしもの今日よりはふたつの生を生きむと思ふ




皇太子妃 雅子様 ご出産記念 お祝い歌会

和歌をその場で作り、それを人々の前で披露する行事を、「歌会(うたかい)」と呼びます。この行事は、非常に古くから行われて来ました。『万葉集』には、「宴席の歌」として、さまざまな宴会の席で、季節や状況に応じた歌が参加者によって作られ、声のすぐれた人物がその歌を吟誦していたことが記録されています。平安時代に入ると、年中行事である公宴(曲水宴・藤花宴・菊花宴など)の際に歌会が行われましたが、これは、当時盛んだった「詩会」の形式にならったものでした。また、「歌合(うたあわせ)」というゲーム形式の歌会も流行し、左・右に分かれた方人(かたうど)がそれぞれの歌を出し合い、判者(はんじゃ)といわれる審判が優劣を判定して点数を争いました。これに対して、ふつうの歌会は、共通の題のもとに、多くの人々が和歌を詠み、それを下位の者から順に講師(こうじ)が読み上げてゆき、最後に、天皇陛下などの御製が披露される、という形式となっていました。「歌会」は、大井川行幸・舟遊などの臨時の行事や、子の日、観月、桜花宴などの季節の遊宴、そして、皇子・皇女御誕生後の五十日祝、百日祝等の祝賀の宴で盛んに行われました。また、多くの歌人たちも、文芸の場として個別に歌会を催すようになり、「月次(つきなみ)歌会」という毎月恒例の歌会が開かれました。現在、宮中で行われている「歌会始」は、年の始めの歌会として、鎌倉時代から断続的に行われ、室町時代の文亀二年(1502)からは毎年恒例となりました(「和歌御会始」といいます)。このほか、現在、京都冷泉家(れいぜいけ)でも歌会が行われています。