セレクト構文 70

という英文解釈の学習参考書で授業をしているとき。
ヘレン・ケラーのトピックを扱う。

三重苦と、情報通信システムの第一人者に若干の接点があったということ。


1880年6月27日、アメリカ合衆国アラバマ州タスカンビアで誕生。スイスドイツ系地主の娘であった。
1882年、2歳(生後19か月)のときに熱病にかかり、医師と家族の懸命な治療によりかろうじて一命はとりとめたものの、聴力と視力を失い、話すことさえできなくなった。この事から、両親からしつけを受ける事の出来ない状態となり、非常にわがままに育つ事となってしまった。
1887年、彼女の両親アーサー・ケラーとケイト・ケラーは聴覚障害児の教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル(電話の発明者として知られる)を訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州ウォータータウンにあるパーキンス盲学校の校長アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請した。3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した当時弱冠20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)であった。彼女はその後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになる。

グラハム・ベルについて

略歴

1847年、スコットランドエディンバラ(Edinburgh)に生まれる。
父は大学教授で視話法の考案者であるアレクサンダー・メルヴィル・ベル (Alexander Melville Bell) 。母はイライザ・グレイス(Eliza Grace)。1863年、高等教育を受けたベルは寄宿学校ウェストンハウス学院(Weston House)で教職を得る。この頃、エディンバラ大学でも音声学を学んでいるが、電気と音声についても興味を持つ。1868年、ロンドン大学 (University College, London) に学ぶ。1870年、ベル一族はカナダのオンタリオ州 (Ontario) へ移住、後にアメリカへ移る。猩紅熱(しょうこうねつ)の後遺症で深刻な問題であった聾者教育のために東海岸複数の学校で視話法を教える。1873年、ボストン大学 (Boston University) で発声生理学を教える。この前後にマサツセッツで製皮会社を経営するトマス・サンダース (Thomas Sanders, 1839年 - 1911年)、弁護士を開業しているG・G・ハバード (Gardiner Green Hubbard) と友人になる。1874年、20歳の電気工であるT・A・ワトソン (Thomas Augustus Watson) と出会う。ワトソンはベルの電話の発明に協力する。
1876年2月14日、ワシントン特許局に「電信の改良」(Improvment in Telegraphy)の特許を出願。同年の3月3日に認可され3月7日に公告された(特許番号 174,465)。3月10日に電話の実験に成功、最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want you!") 。1877年、電話機を日本へ輸出する。1877年、ベルはハバードの三女マーベル (Mabel Green Hubbard) と結婚。1878年、「電気的電信の改良」 (Improvment in Electric Telegraphy) の特許(特許番号 186,787)を得る。
1875年、ハバードとサンダースとベルの3人は特許に関しBell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させたAT&T (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく。詳細は林紘一郎と田川義博の共著「ユニバーサル・サービス」中公新書(1994年)を参照。
1882年、「サイエンス SCIENTIFIC AMERICAN」を発行するアメリカ科学振興協会 (American Association for the Advancement of Science) を創設する。1882年、アメリカ国籍へ帰化する。1887年、アン・サリヴァンを旧知のヘレン・ケラーの家庭教師として紹介する。1922年8月2日、没す。

電話に関するトリビア

グラハム・ベル自ら電話機で話す様子(1876年)
1876年の電話の実験成功の直後に、東京音楽学校の校長となる伊沢修二と留学生仲間であるのちの司法大臣金子堅太郎は電話を使って会話をしており、日本語が世界で2番目に電話を通して通話された言語になった。