404 Blog Not Found:生命が「考える」命の値段

大学時代の尊敬する研究者と、就職活動をしていたときの、警察官僚の人たちから
聞いた話とリンクするところが多かった。

子供が、平和な環境で、勉学に励むことができる価値について考察するのに
とてもいいエントリーだった。

生命が「考える」命の値段というのは、生命全体としての生存力(survivability)ということだ。個体の生死は問題にすらならない。ここでは「誰かが生き残る」ことが至上命題だ。「誰が」というのは問題ではない。

ただ、単に事実というものを、考察しているだけなのではないかと思わないでもないが。
「誰が」を問題にするというのは、無数の固体の中で、「誰が生き残るべきなのか」という、規範というフィルターを通じて、生存競争という事実をみるかどうかだと、思う。

実は人間社会でも、こちらの方が長いこと標準的だった。毛沢東にとっては「中国」の方が明らかに「中国人」よりも大事だった。「人民の海に溺れさせる」戦略は、人民を「水分子」扱いできなければとても出てこない発想だ。日本でさえ、戦前は子供が病気になると、「治療費と葬式代とどっちが安い?」という電話相談があったそうだ。英語で歩兵のことをInfantryというが、その語源はinfant。なんで「子供」が「歩兵」の語源かと言えば、「弾よけ」(たまよけ、だんよけにあらず:)に使ったのが子供だったからというが定説の一つのようだ。一般人どころか為政者すらその例外ではない。子供を人質にとった相手に向かってスカートを捲り上げて「ここからいくらでも作れる」とのたまったのはカテリーナ・スフォルツァその人である

個人的に、この叙述について、深く考える経験をした。
ここには、目を背けたくなる事実がたしかにある。