第13章 テンプレート


[rakuten:book:10741013:detail]

ここにはあなたの引用をどうぞ   B.Stroustrup



なんと、筆者が、自分の発言を巻頭言にしました。
こういうのもありですか。
テンプレートについての理解は、自分がナンバーワンだということなのでしょうか。

私がいままで、読んできた章立てのなかで、一番、読んでいて厳しいと思いました。
さっぱりわけわかめ状態です。
筆者がつかっているソースコードで一体、何をしようとしているのかが、よくわかりません。

「迷路にまよったような感覚」

とアマゾンに書いてありますが。

「自分がどこにいるのかわからない。自分が、どの方向に進んでいるのかがわからない」

こういう感覚になるとき、「迷路」にいるような気持ちになるのだと思います。

「どの単元の学習になっているのかわからない。 どういう目的でこのソースコードが登場しているのかが、わからない。」

やはり、独学というものは、限界があるのかと、思う。




目次

13−1 イントロダクション
13−2 単純な文字列テンプレート
 13−2−1 テンプレートの定義
 13−2−2 テンプレートのインスタンス生成
 13−2−3 テンプレート引数
 13−2−4 型の等価性
 13−2−5 型チェック
13−3 関数テンプレート
 13−3−1 関数テンプレートの引数
 13−3−2 関数テンプレートの多重定義
13−4 関数テンプレートを使ったポリシーの指定
 13−4−1 デフォルトテンプレート引数
13−5 特別バージョン
 13−5−1 特別バージョンの順位
 13−5−2 テンプレート関数の特別バージョン
13−6 派生とテンプレート
 13−6−1 パラメータ化と継承
 13−6−2 メンバテンプレート
 13−6−3 継承関係テンプレート
13−7 ソースコードの構成
13−8 アドバイス
13−9 練習問題

目次を読んでいると、とても整然としていて、わかりやすいように思うのですが。
うーむ。

ある程度、経験をつんでから、もどってきたい章になりそうです。

追記 テキストの読み方について

マルクスを読む (内田樹の研究室)

マルクス「科学」や「教条」ではなく、むしろ「文学」として読まれるべきだろうと私は思っている。
それは「絵空事」としてということではむろんない。
逆である。
教条や社会科学は「汎通性」を要求する。あらゆる歴史的状況について普遍的に妥当する「真理」であることを要求する。
だが、その代償として失うものが多すぎる。
マルクスの理論が普遍的に妥当すると主張してしまうと、なぜ他ならぬマルクスが、このときに、この場所で、このような文章を書き、このような思想を鍛え上げたのか、という状況の一回性は軽視される。
だが、マルクスが生きた時代、マルクスが見たもの、触れたもの、それを想像的に再構成することなしに、マルクスの「熱さ」を理解することはできないのではないか。
それは科学というよりむしろ文学の仕事である。

加藤周一が、文学と自然科学について似たような文章を書いていた。
梶井基次郎が扱うレモンと、家庭の専業主婦が、あつかうレモンにはどういう違いがあるのかという論の立て方だった。

不特定多数無限大の人たちに、強烈な共感を引き起こそうする場合、
厳密な方法論や、緻密で、漏れのデータで武装された、難解な政治的マニフェストよりも、

方法論に無頓着で、つまり実証性というチェックなどおかまいなしで、統計の裏づけのない個人的な思いつきを最大限に拡大させて、情を刺激する「絵空ごと」のマニフェストのほうが、

選挙で、多大な力を発揮するような気がしてならない。

マルクスのテキストが、「文学」として読まれるようになったとき、

たとえば、「資本論」はいままで以上に、多様な読み方をされ、現代に復活するのかもしれない。

で、パロディとしては、「経済哲学草稿」→「プログラミング言語C++」 「カール・マルクス」→「B.Stroustrup

B.Stroustrupは「科学」や「教条」ではなく、むしろ「文学」として読まれるべきだろうと私は思っている。
それは「絵空事」としてということではむろんない。
逆である。
教条や社会科学は「汎通性」を要求する。あらゆる歴史的状況について普遍的に妥当する「真理」であることを要求する。
だが、その代償として失うものが多すぎる。
B.Stroustrupの理論が普遍的に妥当すると主張してしまうと、なぜ他ならぬB.Stroustrupが、このときに、この場所で、このような文章を書き、このような思想を鍛え上げたのか、という状況の一回性は軽視される。
だが、B.Stroustrupが生きた時代、B.Stroustrupが見たもの、触れたもの、それを想像的に再構成することなしに、B.Stroustrupの「熱さ」を理解することはできないのではないか。
それは科学というよりむしろ文学の仕事である

今回は『経哲草稿』である。
「疎外された労働」のところを何十年ぶりかで読み返す。
マルクスは熱い。
あらゆるテクストは想像的にそれが書かれたリアルタイムに身を置いて読まねばならないと私は思っている。
『経哲草稿』は1844年に書かれた。

今回は『プログラミング言語C++』である。
「疎外された労働」のところを何十年ぶりかで読み返す。
B.Stroustrupは熱い。
あらゆるテクストは想像的にそれが書かれたリアルタイムに身を置いて読まねばならないと私は思っている。
プログラミング言語C++』は1998年に書かれた。

追記 その2

Ciscoのお買い物一覧グラフ | On Off and Beyond

というわけで、数百億円規模の案件がぞろぞろあるのであった。なお、買収価格が0になっているのは、価格が発表されなかった案件。
全部で買収案件は、なーんと135件(のはず)。1年平均8件なり。「Make or Buy」、イノベーションは自社ですべきか外から買って来るべきか、、、などと考えてる間にシスコは何周か先行っちゃってると。
で、もちろん、この先に「やっぱり自社でやる」という決断がシスコにやって来る可能性だってなくはない。が、しかし、「外から買う」をせずに来た企業とは全然違う理解と覚悟に至ってるんでしょうね。

つまり、135回、シスコに買収された会社をつくった人には、ウン十億円でもって、自社株を売却するチャンスがあったと。
1年平均8回か。
これを多いとみるべきか、すくないと見るべきか。
同じ夢をみている会社の創業者がどれくらいいるかどうかということですな。
うーむ。
時間に余裕があったら、この135社の創業者のプロフィールが知りたいね。

追記 その3
若者よマルクスを読もう・韓国語版序文 (内田樹の研究室)

マルクスは1920年代から1960年代まで、約40年間、日本におけるインテリゲンチャ(およびwould be インテリゲンチャ)にとっての必読文献でした。政治についても、経済についても、文学や演劇や音楽についても、どのようなトピックについて語る場合でも、マルクスは不可避のレファレンスでした。マルクスとまったく違う政治的意見を述べるようとするものでさえも、「なぜ、私はマルクスの主張を退けるのか」についての挙証責任を免れることはできませんでした。
ですから、韓国の若い方はあまり御存じないかも知れませんが、日本で長く政権与党であった保守政党自由民主党の1960年代の国会議員たちの中にも実はかなりの数の「元共産党党員」が含まれておりました(私の義父もそうでした。彼は1930年代の共産党の地下活動家で、戦後自民党の代議士になったときに、そこで、多くのかつての同志に出会いました)。義父は決して例外的な人物ではありません。青年期にマルクス主義的な政治活動にコミットしていたり、それにシンパシーを感じたりしていた人々が、1960年代までは、日本社会の政財官界での中枢の重要な一部分を形成していたのです。