オイラーの贈物

オイラーの贈物

第2章 方程式と関数

2−1 方程式の根

2−2 複素数の四則

2−3 1のN乗根

2−4 方程式を電卓で解く

2−5 関数とグラフ

2−6 関数の最大値と最小値

2−7 関数の凹凸

2−8 平方根を求める→ニュートン・ラフソン法

「2−4 方程式を電卓で解く」から

本節では、一般によく使われている電卓*1を用いて、数値計算(numerical calculation)に伴う問題点について考える。手元に電卓を置いて、一つ一つ、確かめながら読んでいただきたい。(高機能のものは不要、安価なカード型8桁のもので十分であり、基礎の理解のためには、むしろ、低機能のほうが好ましい。)
はじめに、計算機をしようするときにもっとも、注意を要する事項。

数値計算では本物の実数は扱えない。

を記しておく。これはあらゆる数値計算の大前提である。いかに巨大なシステムを用いても、ただひとつの無理数を記憶することも、表示することもできない。有限の大きさと能力しか持ち得ない計算機に、数値としての無限は使えない*2当たり前のようで、しかし、忘れやすいこの事実を、具体的な例を挙げながら、説明していく。

高校にいたとき、自分の下宿のとなりに、コンピュータプログラミングが大好きな人がいて、しかも、「オイラーの贈り物」が出版されて店頭に並び始めたばかりのころに、このテキストをみていたのに、
放り投げた人間が、齢30をちょっとすぎて、あらためて、「算数・数学」の「なんちゃって、先生」として、見直す。
「どうして、数学を勉強をするのか?」
信じられないでしょうが、いまだに、この種の疑問のようなものが、そこら中にあふれているということになります。
このテキストのいいところのひとつに、「数学の実用性」というものが、いろいろなところにちりばめられているということでしょう。
「計算をする」ということは、ひとつの「業務」なのだと。
「計算をして、正確な数値を出す」ということが、業務の対価をもらえることなのだと。
まあ、こんなことをいってしまったら、会社で経理をやっている人も、「数値計算」「紙のチェック」をやって、日々を暮らすことになるので、似たようなものですが。

ただ、理不尽に、理解しづらい、文言やら、定義やら、定理やらが、並び、膨大な試験範囲が出てきて、
テストで、数学が大嫌いという災難は、ちょっとおいてみて。
数を扱うというのは、
工具を扱うことと、同じなのだと。

NHKで、英語の勉強プログラムのひとつとして、日本の近代文学を素材にするという番組をやっている。
夏目漱石の「三四郎」という小説を、扱うのが今回のトピックになっていた。
たまたま、この小説の主人公が、「大学で勉強する」ということについての場面が、あったそうなので、取り上げる気になった。
受験のない世界。
明確な目的がない世界。
というように、なってしまうのは、「文系」が、想定されているからなのだろうとは思うけど。


http://www.nhk.or.jp/jbungaku/

三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)

『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。
田舎から出てきた小川三四郎が、都会の様々な人との交流を経て成長する過程を描く。この三四郎という平凡な田舎者を通じて、当時の日本を批評。作中で三四郎と美禰子が出会った東京大学の心字池(育徳園心字池)は、本作品の影響から「三四郎池」と呼ばれるようになった。

熊本の高等学校(第五高等学校)を卒業し、大学に入学するために上京した小川三四郎。だが東京は、自分の常識とは全く違った世界であった。さまざまな人と出会い、三四郎は自分は三つの世界に囲まれていることを整理する。一つ目は、母のいる故郷熊本。二つ目は、野々宮や広田先生のいる学問の世界。三つ目は、華美溢れる世界であった。
三四郎は、美禰子のいる三つ目の世界に心をひかれた。三四郎は美禰子に恋慕するが、美禰子は曖昧な態度を続けるのみであった。そして美禰子は「迷える子羊」(ストレイシープ)という言葉を三四郎に幾度となく投げかけ、ついには兄の友人と結婚してしまう。

*1:卓上電子計算機の略語、 その名が示すように、第一世代の電卓は、机の上におかなければ使えないほど大きく、重く、しかも高価だった。

*2:この主の問題に対処するため、数式処理とよばれる計算機科学の分野が発達し、現在では、パーソナルコンピュータ上でも稼動するようになった。