成績をどうやって、測定するのかということが、教育業界に根源的な影響を与えてきたことについて。
テストの作成ということについて、どういうサービスが求められているのかの思考実験。
政府機関が、市場に影響を与えるということは、一体、いかなることなのかを、具体的に考える。ケースメソッドへの考察として。
集合知識について。というより、膨大な個人情報の集積ということが、どうやって、ビジネスになるのかということについての考察。

僕は、気がついたら、数年にわたり、家庭教師をしてきた。
受験生のそばにいて、「勉強」のやり方を教えていた。
どういうわけか、それで生計が成り立った。もちろん、学生のアルバイトの常道なわけだから、そりゃ
できるでしょうけど。

中3を家庭教師した頃の話 | On Off and Beyond

大学時代、死ぬほど家庭教師をしてました。週8回とかやってたからな。疲れたデス。特に、
「中3の子の偏差値を、1-2ヶ月で40台から50台に上げる」
ってのが、私の得意分野でございました。高校受験目前であわてた親に泣きつかれる、みたいなケースですね。

尊敬するブロガー(お会いしたことはありませんが。)のこのエントリーなどを読んで、ほうほうと、思ったものです。

そう、自分は、「勉強」を教えていた。

はこうだん【破甲弾】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

(1)学問や技芸を学ぶこと。学習。
「―部屋」
「おそくまで―している」
(2)ある目的のための修業や経験をすること。
「何事も―だと思ってやってみる」
(3)(商人が)商品の値段を安くして売ること。
「―しますのでお買い下さい」
(4)物事にはげむこと。努力すること。
「職業に―する精神あること/西国立志編(正直)」
(5)気が進まないことをしかたなくすること。
「―して櫓を揺しゐたれば/甲子夜話」
補足説明(4)が原義

この仕事は、時々、自分が何をしているのかが、わからなくなることが多々ある。
生徒の成績が、上がったら、それは、「成果」なのだろうけど、「成績」が上がるという「結果」
にダイレクトに結びつく「原因」が一体何になるのかということは、きっとそう簡単に
わかるわけではない。
なにが、決め手になったのかも、色々と検証しないとわからないことなのだろうと思う。
この言葉の「定義」をみていて、家庭教師になると、(5)の側面をいやがおうにも、見ることになる。

だから、試験の成績というものが、とても大事になってくる。
「成果」というものを測定しようとしたら、これしか方法がない。

一つの、代表的な問題がある。

「中学受験」を志す生徒さんは、「進学塾」に通うべきなのかどうか。

こういったトピックに対して、受験産業に関与している人たちは、自分の子息を受験させた体験や、
塾を経営している中で、子供たちを見てきた「経験」から、色々な意見をもっている。
こういったものが、たとえば、受験関連の雑誌とか、「教育」コーナーの本になって、
ビジネスを生んでいる。

僕も、色々な事例を担当することになった。
塾を利用する生徒さんのほうが、多かったけど。
たまに、塾にはいかないという選択をする生徒さんもいる。

自分が、担当させてもらうことになるとき、できるだけ、他の人が、生徒さんの勉強に関与されるのは、望ましいことでは
ない。
なぜなら、自分との合意がまったくないなかで、学校やら、塾が、どんどん課題を出されるので、
こちらが、いつもごてごてになってしまうということが常道だから。
中学受験を目指す生徒さんで、塾にいかないというケースは、塾によるペースの設定がないうえに、学校は、
受験に関与しないので、実質、担当する私の裁量が圧倒的に大きくなる。
だから、僕は、こういうケースの仕事が好き。
もちろん、うまくいっていないときに、「責任」が全面的に降りかかってくるということがあるのだけど。
でも、それはそれ。
自分のやっていることと、「結果」の因果関係がわからない状態で仕事をするというのも、それはそれで、つらいだろうから。

ただ、こういう形で、私の全面的な裁量が認められている中で指導ができるとき、一つの問題が生じる。
生徒さんと、私の指導関係が、「密室」になってしまい、一体、生徒さんへの指導が実を結んでいるのかどうかがわからなくなってしまうという
問題がある。

だから、大手の進学塾のテストを受けてもらう。
大手の進学塾のトップクラスには、関西エリアで1位2位を争う難易度を争う難関の学校を狙っている成績上位者がいる。
進学塾のテストをうけたら、彼らを母集団にしての成績をみることができる。
しかも、このテストは、一月に1回、定期的にやってくれるので、助かる。
その進学塾に所属して、講座を受講しなくても、こうやって、テストさえ受けてくれれば、「現状」を把握できる。
塾は、ともすれば、ギリギリまで、生徒さんを拘束しようとして、その生徒さんに適切な学習ペースなどは度外視した課題などを
出すこともある。
100人の生徒さんがいて、1人でも多くの生徒さんに結果を出してもらうとしたら、そういう発想で、勉強をやらせるのは仕方がない。
むしろ、そのほうが合理的なのではないかと思うことがある。
家庭教師の場合は、担当する範囲が1人だから。
進学塾のアプローチはとらないでいい。

そうそう。書いていて思い出した。
進学塾で長年、算数の先生をやっていた人だ。

塾には、2種類のテストがある。毎週の平常の授業で学習した内容が理解できているかどうかを確認する「復習テスト」。
そして、1月に1回実施される、試験範囲が事実上存在しない「実力テスト」。

当然、実力テストに該当する問題の作成のほうが、しっかり作りこまれているそうだ。
というより、塾の中で、算数の先生にもランクがあるそうだ。
腰掛でやっている算数の先生と。
本腰をいれてやっている算数の先生。
「実力テスト」の作成になると、本腰をいれた、ベテランの先生が担当するとのこと。
「復習テスト」は、平常授業のテキストに出題されている問題を、すこし数値を変えて、並べると出来上がるので、お手軽に
若いスタッフに回されるとのこと。

【学習】

(名)スル
(1)まなびおさめること。勉強すること。
「新しい教科を―する」
(2)〔生〕 生後の反復した経験によって、個々の個体の行動に環境に対して適応した変化が現れる過程。ヒトでは社会的生活に関与するほとんどすべての行動がこれによって習得される。
(3)〔心〕 過去の経験によって行動の仕方がある程度永続的に変容すること。新しい習慣が形成されること。
(4)〔教〕 新しい知識の獲得、感情の深化、よき習慣の形成などの目標に向かって努力を伴って展開される意識的行動。

実力テストに相当するものを作成していた人にも会って話を聞いたことがある。
その人は、たしか理科の先生だった。
個人にまかされて、自宅で作りこんで、塾に「納品」をするらしい。
彼は、もともとメーカーの技術者の人だった。
理工系の技術を実際にビジネスで使い込んでいた人だ。
そう、テストを作成するスキルって、貴重だ。
集団的に学習塾を運営しようとすると、当たり前の話だけど、このテストの運営というのは、死活的に大事になってくる。
とてもシンプルなテストのシステムを運営している塾もあるし。
ありとあらゆる指数を、成績のデータからたたき出してきて、色々な「合格予想」情報を出力させるシステムもある。
塾の成績システムに詳しい人がこれを読んだら、一体、どういう塾のことを指しているのかは、おそらくすぐにわかるのだと思う。
でも、不思議なことに。実力を測定するテストのシステムが簡単な塾にいっている生徒さんの指導のほうが、なぜか個人的には好きだ。
そういう塾のテスト・システムは、単純すぎるかもしれないけど、平常授業で学習させる事項を、しっかり生徒さん1人、1人に
定着させるための工夫に共感を覚えることが多いからだ。
テストは、「現状」を把握するための「手段」だ。
塾で、生徒さんに達成させないといけない「目的は、「生徒さんの成績をあげること」
テストのシステムが複雑な塾は、それで安心しているのかどうかは、知らないが、平常授業のテキストで学習する内容について、
どうやって、知識や、解法を生徒さんに定着させるのかというところで、どうも詰めが甘いような気がする。
これは、別に客観的に検証してきたわけではないけれど、色々な進学塾の平常授業の運営の仕方をみていて、思ったこと。
というより、そういう問題点に気がついて、改善策を提案して、全国に配布されている教材の実質的なシステムな中身をカイゼンすることが
できるような人物がいたら、彼は、もっと待遇のいいところにいって、働こうとするだろう。
というのは、私の勝手な推測ですけど。(内田先生のマネ)

http://www.h7.dion.ne.jp/~shindan/dokushonote4.html
wikipedia:ピーターの法則

南カリフォルニア大学教授の教育学者ローレンス・J・ピーター(Laurence.J.Peter)により自著 『THE PETER PRINCIPLE』の中で提唱された。 日本では1969年、『ピーターの法則―〈創造的〉無能のすすめ―(ローレンス・J・ピーター/レイモンド・ハル 田中融二訳)』 がダイヤモンド社より出版された(2003年再版の新訳は渡辺伸也)。

ピーターの法則は、「人々はあるヒエラルキー(階層社会)のなかで、昇進していくうちに、いつか無能レベルに到達する傾向がある」という簡単なものです。

具体的な例をあげてみましょう。
あるレベルで(例えば営業担当者として)有能であるものは、営業マネージャ(課長とか)に昇進し、マネージャとして有能であれば部長とか支店長に昇進しというふうに出世していきます。
そして、いつかの段階で、部長としては(あるいは支店長としては)無能でるとか、事業部長としては無能であるとかいうレベル(段階)に行き着いて、そのレベル(段階)でその人は昇進がとまります。
そして気づいてみると、いつしか営業部門はそれぞれの段階で出世がとまった人が多くを占める集団と化し、
往年の輝きを失っているというわけです。

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

読んでいませんけど。せっかく、ここまでGOOGLE先生に色々聞いたから、あげておきます。

なんで、こんなに、テストのことをつらつらと書いたのか。
話はようやく本題に戻る。
まあ、ようするに、テストについて日ごろ考えることが多かったのだということです。
仕事をしているとき、ネックになったり、問題の焦点になっているのは、常にに「テスト」なわけです。そして、ここから、僕は、あまりにも当然のバイアスのようなものを持つようになってしまった。

私が仕事として、教えている勉強は、「試験勉強」なのだということだ。
そんな当たり前のことを、どうして、いまになって、明確に自覚しなかったのかというと。
「論文を書くトレーニング」を積まなかったからなのではないかと思っている。

最近、セミナーを受講していて、その中の一つで大変示唆的な課題があった。
http://ameblo.jp/yoshinagakenichi/

トピックは、
「調査の技術」
どんな課題なのか。
ロジックのあるまとまりのある情報で、頭に入っているもの。それを、意味記憶として取り扱っているような気がする。
WIKIPEDIAで定義を調べてみる。

意味記憶とは言葉の意味や世界のあり方についての記憶である。1966年に心理学者のマックス・キリアンによって提唱された。意味記憶の構造は、(コリンズとキリアンによって)意味ネットワークという形でモデル化されている。他にも、意味記憶を表す多くのモデルがある。

その「意味記憶・知識」の目的は何か?
その「意味記憶・知識」の定義は何か?
その「意味記憶・知識」をわかりやすく説明する「たとえ」「具体例」は何か?
どうやって、その「意味記憶・知識」は「適用」「応用」されるのか?
その「意味着多く・知識」を習得するのに、誤解しやすいところは何か?
では、その「知識・意味記憶」を習得してから、どんな学習ステップを踏めばいいのか?

自分が、関心をもっている知識分野。自分が、わかりたいと思っている知識分野。
そして、自分の意味記憶の中に叩き込みたいものを、このフレームに沿って、記述しなさいという課題だ。
そして、この課題を実行するのに、一つの条件が課される。

この6つの質問に、回答を作成する際に、Webのホームページであれ、文献であれ、人から聞いた話であれ、
記述の「情報源」になるものを、3つ以上、記録しなければいけないというものだ。

だからどうしたのだと、いわれるかもしれないが。
この「調査」のために、「知識」を追い求めるのか、それとも、「試験勉強」のために、「知識」を追い求めるのかが、大学の単位取得(これは試験勉強だけど。)と、それ以外の受験勉強をわける
境目なのではないかと思ったのだ。それが、ふっと、頭の中でクリアになった。
論文を書くための勉強と、試験でいい点数を取るための勉強。
もちろん、この二つをばっさりわけることはできないわけだけど。

いま受講しているセミナーは、どうやら、その最終の講義で、この二つの勉強の種類に対して、明確な関係を提示することが企画されているらしい。

どうして、テストの話と、私が受講しているセミナーの話がここで、出会ったのだろうか。
ふと、思う。
まあ、字数をどんどん稼いで、エントリーを作成するスキルを身につけたいからということもあるのだけど。一応、理論的な根拠はあるのかな。
「学習」する目的。
「学歴」を形成する目的。
自分の中で、これが、ずっとはっきりしていなかったという負い目を背負っているのではないかと思う。
僕は、「調査」をするための「勉強」「学習」は好きだけど、「試験でいい点」を取るために、「勉強」「学習」するのが好きになれないということに
思いいたったような気がする。
自分が好きなことはなにかということ。
自分が、生活を維持するためにやっていることは何かということ。
まあ、この「目的」についての議論にも落とし穴があるのであります。
では、「調査」する「勉強」が好きだとして、その「目的」は?
「論文」を書いて、生活したいのか?
「調査」の技術を、ウリにして、企業で働きたいのか?
このままの生活でいいのか?
そんなことを、考えたのだと思う。
「調査」の技術で生きて生きたいとして、どんな「分野」で「調査」をしたいのか。
自分の適性は、一体何か?

「調査の技術」というサンプルを提示されることを、通じて、何か、自分の中のモヤモヤが解消されたような気がしないでもない。
本来、大学の学部の時代にわかっていないといけないことだったのだが。不覚でした。

そう、そして、ここまで書いて、また思いついたことがある。やはり字数を稼いでいくというのは、それ自体、大事なことなのではないかと思うようになって書いた。
「考えてから書く」のではなく、「書いているうちに考えている」という状態があるのではないかと思うようになったのだ。

受験産業」というのは、「試験でいい点を取るための勉強」を教える仕事だと思う。
それが、基軸になるのだということをしっかり自覚したい。
そう、テストというのは、「受験産業」の目的なのです。当たり前です。「受験」って、書いてあるじゃないですか。
自分の中で、何かに、気がつくというのは、こういうことなのではないかなと思う。
世の中、複雑な知識なんてのは、ごまんとあるわけだけど、ふと、心のそこから、腑に落ちたと思える体験というのは、案外、こういう当たり前すぎる、盲点に
気がついたときなのではないかなとか。
そんなことを思う。
こういうのを、「気づき」というのかな。
遠くから、生徒さんを見ていたら、こういう問題意識を持つことはなかったように思う。
けれども、近くで、生徒さんのそばにいることで、色々なことをライブに体験できたということが、自分にはプラスに働いた。
これは、「ミクロ」な体験。
今まで、書いてきたことは、すべて「ミクロ」な体験。
そういう自分の「ミクロ」な体験を積み重ねると、「マクロ」な話を知ったときに、俄然興味がわいてくる。

以下のエントリーもそんなエントリーだと思う。
予備校・・今と昔(2)|山本先生
多少、長いエントリーになっているけど、今のセンター試験、昔でいうところの、「共通一次試験」というものが、大学受験の世界に導入されたとき、
予備校業界にどういう再編が起きたのかということだ。
僕のような人間にとって、霞ヶ関というのは、「文部科学省」になる。
そして、このエントリーを読んでいて、つくづく、「巨像とアリ」の関係を思い出した。
自分は、巨大な釈迦の手のひらにのっている、小さな小さなサルなんだと思う。

昭和40年代から50年代の前半は各大学が行う入試の問題がどんどん難しくなり,
大学入試問題の歴史の中でもっとも難問が多く出題された時期です.
数学の問題に限ってみても,学習内容は今の受験生よりも広く,さらに高度な知識を必要とし,
受験生のレベルもおそらく最も鍛えられていた時期であったと思います.

大学の研究者にせよ、予備校の世界にせよ、この年代に大学受験の門をくぐったのかどうかは、参考になると思う。
受験生が、歳月を経て、大人になってからのアウトプットに、受験は確実に影を落としているような気がしてならない。

けれども問題が難しくなればなるほど,大学を目指す多くの受験生には負担が大きく,
基礎的な学習が削られ,高校で学ぶ内容が大学受験のため勉強であるといった,
本末転倒な教育になっていく心配もありました

古典的。あまりにも古典的。
でも、「ミクロ」な視点で書かせてもらうと、自分の目の前で起きていた現実が、集積されて、「政策」という形に化けていくプロセスに、法学部出身者として
興味を覚えた。

それは共通一次試験を実施することにより,
各大学を志望する生徒の得点を調査することにより,
それぞれの大学のランク付けにつながってしまったのです.

ちょっとミスリーディングかもしれない。
ランクが、「明確」になったといったほうが、誤解がないのかもしれない。
潜在的な「ランク」はあったはずだ。どんな時代にも。

共通一次試験を受けて思うように点が取れなかった受験生は
低い点数で志望大学を受けられなくなることを恐れ,
各大学を希望する他の受験生の動向や
より精度の高い合格可能性,ボーダーラインなどを気にしますね.
そこで河合塾代々木ゼミナールが大きく全国展開をしていくきっかけが生まれます.

そう、ここです。このエントリーが僕にとって興味深かったのは、データの集積が、大企業を生んだということだ。

たとえば,昭和50年代前半,名古屋・中部地区にしかなかった河合塾
全国に事務所を開き,全国の高校に働きかけ,受験生の共通一次試験のデータを集めます.
全国の受験生のデータを処理して,各大学を志望する生徒の得点を公表することで,
受験生の予備校に対する依存度が一気に高まっていくのです.
代ゼミ同様に多くのデータを集め代ゼミ独自の予想も加えて受験生に提供していきます.
河合塾は全国においた事務所を順次校舎に変更していくのですが,
昭和53年に東京に進出してきます.

代ゼミも大都市圏を中心に校舎展開していくことになります.
三大予備校がどんどん大きくなり,
ネットワークを持たない大都市圏の個性ある予備校はしだいに姿を消していく・・
共通一次試験は予備校界に大きな波紋を投げかけていったのでした.

世の中全体のために、「最善」の選択をするということは、どういうことなのかと、ふと考える。
共通一次試験が導入されることで、高校3年生や、浪人生の実力を測る物差しは一元化された。
それは、受験生1人1人の立場で考えると、確かに、ありがたい話だ。
すこしでも、まともな学力をもったフレッシュマンがほしい大学の運営者にとってもいい話であることは間違いない。
大学を受けに来る学生の成績が、無数のテストによって、出てくるものだったら、ある成績表の偏差値70が信頼できる値なのかどうかは、
わからない。
どの学校も共通一次試験の成績を採用すれば、成績判定のぶれもなくなる。
その結果、受験生は、大きな受験生ネットワークをもっているところに殺到する。
そして、中小の予備校が淘汰される。

このエントリーを読んでいて、ふと、経済学か、独占禁止法の勉強でも再開しようかと思ったほどだ。

再編が起きたということは。企業にアクションを起こさせたということだ。
政策の変更が起こる。→事業の環境がかわる→企業は、変化する環境に対応する事業体制を構築しようとする。→そのためのステップを、外部の資源を使って、実行しようとすると、事業投資になり。内部的にやろうとすると、「研修」の
問題になる。

独占禁止法 第2版

独占禁止法 第2版

恩師によるテキストです。おそらく、一番定評があるのではないでしょうか。