徳島のドラゴン桜|和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

昨日は、緑鐵の新人講師を雇うために、アルバイトの募集にきた講師の面接をする。
いろいろと採用をするかどうかでの受け答えをするのだが、一人、徳島の無名校から現役で東大に入った生徒がいたので、ちょっと質問をしてみた。すると、その東大生は、その学校からは10年に一人しか東大に入らないのだが、ドラゴン桜みたいな教師がいて、その教師が、高校2年生くらいのときに、みんなに東大に行かないかと勧めて、私の勉強法の本(とくに、『新受験技法』を読ませて、それにしたがった勉強に協力していったら、なんと10年ぶりに東大合格者を出した学校なのに、5人現役で東大を受けたら5人とも合格したというのだ。
これはすごいことだ。私の本も多少役に立ったのだろうが、たった一人の教師の奮闘でそこまで変われるとは。
われわれの学校コンサルテーション事業も本気で頑張らないといけない。

wikipedia:福澤諭吉

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、天保5年12月12日(1835年1月10日)- 明治34年(1901年)2月3日)は、日本の武士(中津藩士)、蘭学者、自然科学者、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、明六社発起人、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、適塾第十代塾頭、慶應義塾創設者。また、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。

wikipedia:丸善

創業は、1869年1月1日。創業時の社名は「丸屋商社」その登記簿に、代表者として「丸屋善八」という架空の人物を記載したことから丸善の名が生まれることになった。創業者は福澤諭吉の門人・早矢仕有的(はやしゆうてき)である。設立当初から、世襲が基本だった当時の商習慣を廃し、所有と経営を分離するなど、事実上日本初の近代的会社として知られる。丸善は近代日本に於ける西洋の文化・学術紹介に貢献し、その紹介する商品によって培われた気風は「丸善文化」と呼ばれ、多くの文化人に愛された。また書店のみならず、学術情報から服飾・高級文具・建築まで幅広く手がけており、創業時よりの商社的性質が現在も残る。


wikipedia:明治安田生命保険

沿革 [編集]

1880年(明治13)1月 - 安田生命の前身である「共済五百名社」が安田善次郎により設立。
1881年(明治14)7月 - 福澤諭吉門下の阿部泰蔵(水上瀧太郎の父)らにより明治生命保険株式会社設立。
1947年(昭和22)6月30日 - 安田生命保険相互会社設立(1951年まで光生命保険の名称を使用[1])。
1947年(昭和22)7月9日 - 明治生命保険相互会社設立。
2004年(平成16)1月1日 - 明治生命保険相互会社を存続会社として安田生命保険相互会社と合併し明治安田生命保険相互会社と名称変更。

三田会
http://www.inet-mitakai.com/Pages_folder/gakumon.html

青空文庫
福沢諭吉 学問のすすめ

初編 5000字

はしがき 200字

端書 1000字

人は同等なること 4000字

国は同等なること 1000字

 一身独立して一国独立すること 4000字

学者の職分を論ず 6000字

付録 1000字

5編 5000字

国法の貴きを論ず 6000字

国民の職分を論ず 6000字

わが心をもって他人の身を制すべからず 6000字

 学問の旨を二様に記して
   中津の旧友に贈る文  5000字

十編



   前編のつづき、中津の旧友に贈る 4000字

十一編



   名分をもって偽君子を生ずるの論  5000字

十二編



   演説の法を勧むるの説  2000字

人の品行は高尚ならざるべからざるの論 3000字

十三編



   怨望の人間に害あるを論ず  5000字

十四編



   心事の棚卸し  3000字

世話の字の義  2500字

十五編



   事物を疑いて取捨を断ずること 6500字

十六編



   手近く独立を守ること  2000字

心事と働きと相当すべきの論 3500字

十七編



   人望論   6000字