スパイシーな言葉について

どんな人たちにも受け入れられていきていくのは大変なことだ。
というより、そんなことは不可能だということをさっさと受容した
ほうがすこしまともにいきることができるような気がする。
そんなことを、思い出す書き物が2点ほど。

そして、どんなところに自分がいたら、一番はまるのかということは
きっと本人はよくわかっていないのだと思う。

「美食のテクノロジー(辻芳樹著・文芸春秋)」の中でアラン・デュカスの哲学について触れている。その中でも「尊敬−他人も自分の一部であること」そして「記憶−どこに向かっているかを知るためにも、どこから来たのかを忘れてはいけない」という言葉は料理と同様に強烈だ。

和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」

要するに同じ東大を出ていても、周りが東大卒ばかりだと、ただの人(そういう点では東大医学部を出て東大病院に入るのは、好き好んでただの人になるようなものだ)になってしまうが、創業以来初の東大卒などという会社で、利益をものすごく出している会社に入ると最初から幹部候補生のこともありえる。経営者や政治家には東大卒嫌いな人もいるが、それが好き、とくにそういう人間をいつか自分の部下や子分にしたいと思っている人間は大勢いる。

そういう人を探すと、「ただの東大卒」にもチャンスが生まれるはずだ。

世の中というのは、自分の価値というのは多くの場合、絶対的な価値でなく、相対的な価値で決まる。

並の上くらいの美人がモデルクラブに入っても、ただの売れないモデルで終わる可能性が高いが、少し落ちるルックスの人が司法試験(新司法試験)にうかれば、「美人過ぎる弁護士」と言われるだろう。

二流の大学を出て、学生時代売れないモデルをやっていても、市会議員に当選すれば、美人過ぎることになって、国会議員になれる可能性も高まる。売れないタレントが川柳作家や歌人になれば、美人ともてはやされて、財界人や公益法人のトップのバックアップでうはうはの生活をしている人もいるということを聞いたことがある。

私も二人の娘を持つ身だが、お前らのルックスで、「美人過ぎる」と言われるにはどうしたらいいか考えろとしょっちゅう言っている。

人間の価値というのは、その世界での相対的なものと考えている。実際、私も東大医学部合格という受験生にしか通用しないような価値で、50面をさげて生きていけるかを考えて生きてきた。