Y. ITO's Diary:二十四の瞳
2時39分

二十四の瞳 デジタルリマスター2007 [DVD]

二十四の瞳 デジタルリマスター2007 [DVD]

昨日は、自分の34回目の誕生日となりました。
どうも、「誕生日」そのものをトピックにしたブログのエントリーというものもほかにあるようで。
偶然ですが、
2011-09-11 - 遥か彼方の彼方から
こんなエントリーもありました。
たしかに、こういう自分なりの特別な日に何か節目に
なるかもしれない何かを書き残しておくというのはそれなりの意味があるのかもわかりません。
Facebookで、知人、友人に祝ってもらったり。
また家族、親類の方で私の誕生日のお祝いの言葉を
いただきました。
自分から何か企画するというわけでもなく。
終わってしまってから思うに、こういうことも自分から
なにか動いて、ちょっとでも楽しい何かを生み出したいなと
ふと考えたりします。
どうも歯切れが悪いです。まあこうやって失速しない範囲で
あれやこれやと思案しています。
家のポストに宅配寿司のチラシ(Leaflet)が入っていた。
いつ言ったのかは覚えていないけど、どうも店の顧客リストに
誕生日付きで登録されているらしく。9月ということで
「お誕生日割引チケット」が入っていた。
1500円以上の注文をするとめでたく10%の割引をうける
ことができるのだそうだ。
今日の朝はその宅配寿司のチラシと、10%割引バースデー カードを眺めることから始まった。
ちょうど、お店の閉店時間と、僕が授業を終えて家に帰宅
する時間が重なっていた。つまり、家で腰をおろして、寿司桶を待つことができる時間にはお店が閉まっていると。
ということで、時間指定ではやい時間帯から注文を入れても
よかったわけですが。しかしな。
自分一人で、家で寿司桶というのもどうかなと思い始め。
だったら、友人を誘って、何かやりたいなと、柄にも
ないことを考え始めていた。
そういうわけで、紆余曲折があり。寿司桶はやめにした。
そのかわり、家路についてから、最寄りの駅の近くにある
焼き鳥のチェーンのお店にいく。
ドリンクも串も比較的まともな価格でありつくことができるので、自分なりに重宝している。鶏肉がダイエットに優しいということもあり、食べるなら鶏肉みたいな傾向が自分には
あるのかな。
残念ながら、日曜日ということもあり、店内は忙しかったみたいだ。ここ最近、財政が厳しかったということもあり、この価格のお店ですらなかなか足を運ぶことができなかった。
つまり、久しぶりだったわけです。
メニューの冊子もリニューアルしていた。
おすすめの焼き鳥のベスト3が並んでいる。
記憶が曖昧になっているけど。
「つくね タレ」
「砂肝」
「ささみ」
たしか、こんな組み合わせだった。
たくさんある焼き鳥のリストから選ぶのも面倒な気分だったので、注文を取りに来た人にはこの冊子のランキングをみてもらい、
「じゃあ、これとこれとこれでお願い」
という。
しばらくまっていたところ、
残念ながら、砂肝とささみは在庫がもうないといわれる。
やはり、こういう形で売れ筋だよという宣伝があると、
さらにどんどん注文が入るということかいな。
それにしても、2品も在庫がないよといわれたことはありませんわ。
ちょっとだけむっとしたけど、まあしょうがない。
かわりに、「ハート」「もも肉タレ」を注文したような
気がする。
まあ、それはそれでおいしかったからよしとしましょう。
すぐに店を出て、いつものスーパーマーケットに立ち寄る。
お茶とわらび餅を買う。
買い物袋をもって、店から家に向かう。
その途中で、現在金沢にいる友人からHappyBirthdayを受ける。
数年来、色々なところに遊びにいくときに一緒だった
友人だ。ひょんなことから福岡で所帯をもつことになった。
嫁さんの実家が金沢にあるということで、実家のご家族と
温泉旅行の最中。
彼の 第一子誕生はこの地の病院で迎えるとのこと。
待ちきれないで、お医者さんに男の子か女の子かもう聞いてしまったとのこと。
まだ、実際の出産予定日には3ヶ月ほど余裕があるのだが、すでに
子供につける名前の選定作業は着々と進行していた。
というより、ほぼ終わっていた。
漢字を一切、使わない柔らかい感じの名前にするかどうかなども考えた

そうだが、そうした選択をした場合の「画数」を占いで検討してみた結果
やはり「漢字」を入れて調整したほうがいいということになったそうだ。
そういえば、弟夫婦に生まれたばかりの子供の名前のことをまだあまり立ち入って
聞いてはいなかったっけ。
もう、Skypeの画面を通じて、寝顔を見ているだけでこっちがうれしくなるので、
そんな細かいことはどうでもいいですが。
といっているうちに、弟夫婦よりもHappyBirthdayのメールや電話をもらう。
こころなしか、いつもの年よりも、すこしだけ安心感のようなものを自分は
得ることができたのだろうかとも、考えたりする。いやこんなことは考えたりすることではなかろうに。
ということで、原稿用紙のマス目を埋めるという「作業」のためにどうやって、何を書いたら
いいのかということを思案しながらこのエントリーは書かれている。
このエントリーを起こすきっかけになったのは冒頭で紹介した法学教師のブログ。
二十四の瞳」といういわゆる「名作」の原作になった文学作品の紹介があった。
小説の舞台は「小豆島」という、関西エリアのとある小さな島。
主人公は、若い時にこの島の分校のようなものに赴任してきた女性教師。
太平洋戦争や日中戦争で日本社会が一大変革というかダメージを受けるという時期を
時代背景にしていた。
映画について色々書いてみようという時にもアプローチの仕方がある。
想定しているアプローチがいくつかあって、どれを選んでいるのかという自覚がしっかり
ないと、方向性が迷走した状態で、ただ字数だけが重なっていくということにもなりかねない。
というか、すでにそうなっているような気がする。
この「映画」たしか。
僕がまだ小学生くらいのときに、見たような気がする。
僕が今回、DVDで借りてきたのは、昭和31年に公開されたものらしい。
wikipedia:二十四の瞳
wikipedia:二十四の瞳映画村
ここで、映画の原作になった作品の筆者についてあれやこれや書くということも字数を埋めるのには有効な方法かなと思ったりする。
または映画の制作スタッフについての話についてあれやこれや書くというのも一つの方法では
あるなと思った。
映画のあらすじを書いていくというのも一つの手だと思う。
それにしても。これだけ有名な映画であるので、あらすじ一つとってもどうやって書くのか
ということにもなる。
Wikipediaの解説ページから引っ張ってきてもいいし。
実は、冒頭で紹介した先生の「要約」もものすごくうまいこと出来ていた。
さすが、論文を仕上げるために膨大な文献を読みあさる必要に迫られているだけあるなと。
つくづく思った。読んだもののポイントをつかむということに、職業的な「修練」を感じます。
きっと裁判の「判例」なんかもこんな要領で書いていくのだろうなと思った。
いまこうやって書いていて、「あらすじ」は省略してしまったほうがいいのかなと。
そんなことを考えています。
誰が書いた文章だったのかまで覚えていないが、「読書」の目的は何かということを
トピックにしたものがあった。
「読解」のポイントは「共感」だったと思う。
およそ、「文章」を書く。「テキスト」を自ら「書く」ということをする人は「読者」を
想定しているわけで。
実は、この肝心な前提が、あやふやであることは多いのですが。
なにせ、深夜に書いているので、「読者」を想定して書き上げたものを洗練させていく
というようなところまで、気合いをいれることはおよそ出来ない。
4000字の壁を越えるだけで精一杯になるのだろうと。
よっしゃ。あと原稿用紙2枚分に相当することを書いたらええがな。
こういうエントリーを書くことと、あながち無関係ではないと思うことも。
先日、東京の劇場で「ピグマリオン」という作品を鑑賞する機会を得る。
このエントリーは「二十四の瞳」がメインですので、この作品には立ち入りませんが。
原作がバーナード・ショーという人ですよとか。いろいろあるわけですが。
とにかく、「有名」な「作品」だということに関してはここでとやかく書かないでいいと
思う。あとで聞いた話によると、この誰もが知っているといってもいい有名作品を
脚本にしないといけない人の苦労話を聞いた。
どうして、脚本を完成にもっていくのにすったもんだがあったのかの詳細はそういえば
まだ聞いていない。
およそクリエイターといわれている人が何かを世の中に出しましょうよということになったら
やはり発表をする人が、「自分が加えた何か」というものを、わかりやすくアピールしないと
いけない。それが「プロモーション」ということなのではないかなとふと思った。
それは、数多くの先輩が何らかの足跡を残しているような作品では難しいことだ。
「あ、それは○○さんが言ったこと」
と指摘されたら終わりと。論文の世界ほど厳しくないだろうけど。
プロの人より、感覚だけで好悪の結論を出す「観客」と向き合っている脚本家の人も
この 苦しさ
存分に味わっているのだろうなと思った。


そろそろ結論らしいものにたどりつかないと収まりがつかないようになってきた。
こういう言い方が適切かどうかは知らないが、「二十四」を書いた筆者には多少
「色」というか、「政治」というか、「Bias」というか。
そういうものがかかっているわけです。
そうすると、どうしてもこの作品が「政治」という文脈でもああだこうだと言われるわけですが。そういうものから「開放」されているからこそ、この作品は曲がりなりにも
サバイバルすることが出来たのだろうなと。(3961文字)
12人の生徒と、教師。架空のストーリーとはいえ。
教師が、生徒一人、一人に「共感」をもてる、「目が届く」範囲。
こういった「範囲」に見事にはまっている作品だったのだろうと。
有る子は家の事情により、進学をあきらめる。
有る子は、芸術の道を一度は志すも、やはり家族の反対で頓挫。
自分の人生を自由に選び取って生きるということは、とても難しい、難しいことなのだと。
ここから、どんどん文章がとぶわけですが。
「時代状況」などという、ほとんどの個人にとっては「外からの厄災」でしかないものに、
作品の中の教師や児童は、翻弄されている。いや、翻弄されているという意識も
よく持てないままに、なにか暗いくらいパワーのようなものにおびえる。
大部分の人にとって、一人、一人の具体的な「人生」をたどっていくとき。
多かれ少なかれ、みんな「小豆島」の「住人」なのではないかと思った次第。
いままで書いた中で、一番、ロジカルさを消去したものになってしまったかな。