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ついにM&D読了。
終わった。
さて、これからどうしようって感じです。
長かった。

Mason & Dixon

Mason & Dixon

Endingのことで色々と書くと、いわゆるネタばれになるから、
こういうところで書いていいのかどうか迷う。
さあ、これからどうしようか。
一つ考えたのは、いっそのこと、丁寧な翻訳を読んでみるということ。
もしくは、M&Dを読んでいて、読んでみたいと思った本を
これからも1冊ずつ読んでいくということ。
いずれにせよ、そうすることで、この連載をさらに続けるという
ことも出来るなと。
そんなことも考えました。
それとも、ここで打ち切って、そのまま
GravityRainbowに切り替えるか。
気分が乗ってくるまで、まだM&Dをやるという手もないではない。
区切りがついたから。
M&Dを読んでいるうちに、古い英語で書かれたものが気になり、
そうすると、たとえば、シェークスピアを原文で読むって
どうなの?とか。
新しい地平線が開けてくるわけ。
それにしても、ここまでたどりつくのに、色々なものに目を通した。
イギリスの政治の歴史を通過したかと思えば。
インディアンのことを書いた本を読み。
海洋生物学の権威みたいな人の本を読んでみたり。
英語のプロの人の勉強方法に触れてみるということもした。
一つの視点にそって、いろいろなものに触れてみようと。
フランスの近世史もふれました。
M&Dにフランス人が出てくるからです。
アメリカの独立戦争についての文献なども興味あって
リストには載せています。さて、この連載のために読むかどうかという
のは、現在も考え中。
地図を話題にしたエントリーも書きました。
測量ということを仕事にする人たちの見聞。
風水の研究者の本も登場してもらいました。
それでは、たとえば、中国の歴史について調べるのかどうかとか。
キリスト教の歴史。
たとえばProtestantismのことを読むのかどうかとか。
こういったこと一つとっても、この小説の読みを深めるための
作業はいくらでもありうると思います。
それが「研究」というものかな。
そして、なにかM&Dについて新しい知見を得ることができるかどうか
みたいなことになってくるのかな。
それは大変なことだけど。
テーマは一体、なんだったのかといわれると。
それも、どうやら一言で表現できるような類ではないのだろうなと。
「アメリカの本質がある」みたいなことが書かれていたこともあったけど。
まあ、そういう面もないではないのかな。
MasonとDixonのどちらが、好きかといったらMasonのほうが
私には合っているような気がしました。
Dixonはどうもいまひとつ、よくわからない。そういう印象。
思いつくままに書いています。
スウィフト。ブレヒト。へろどとす。ユークリッド
シェークスピア。
こういったところだけでも、10回くらい、エントリーが書けそうです。
東インド会社
これもまだ未開拓。
ポパイが登場するシーンもありました。
占星術のことが出てくるところもありました。
なんだか。作品全体から得られる何かより、部品の一つ一つに
振り回されながら、読んでいたような気がします。
だから、なんとか筆が止まらないで、こうやって、ごちゃごちゃと
書いているのだと思いますが。
ピンチョンの代表作品は不思議なことに、作品に登場する色々な
雑学のようなものが詳細にWikiになっているので
作品それ自体が難解であっても、作品が出来るときにどういう
ことが素材とされ、作品の骨格になっていったのかというプロセスは
比較的にわかりやすく整備されているように思います。
結果として、他の文学作品や、映像作品を見ているときに、
その作品の部品がすこし見えてくるような気がしました。
ある種の「創作の勉強」に近い時間が過ごせたような気がします。
これから、他の小説を読むときの視点も少し変化するかもしれません。
ピンチョンの作品が、石を積み上げた巨大な建築物だとしたら、
石の一つ、一つについて、可能な限り、検証をしてみるということを
やってみたのかもしれない。
そして、Wikiを読んだり、文献を読んだりして気がついたのは、
本当に、かっちりと作り込まれた作品なんだろうなということ。
石の一つ、一つの由来、出所を調べていく過程で色々な筆者に
文献を通じて、知るわけですが。
彼ら、それぞれが、ちゃんとした専門領域をもっていて、
その長い研究成果の発露としてのすぐれた文献がそのままピンチョン作品の
エッセンスの一つに埋め込まれている感じがします。
部品の一つ、一つを調べていて、「これはすごい。」と思うことが
多かったように思います。
「辞書を引く」という英語学習の基本のところだけでも、
色々と知見を広げることが出来た。
OxfordEnglishDictionaryについて意識するということも
彼の作品に触れることがなかったら、なかったと思う。
英語の成り立ちについて、もう一度、考えるということも
擬古文という不思議なスタイルにもまれないと意識しなかったと思う。
そして、そういう視点を得たおかげで、プロの英語読みという人たちがどういう
ノウハウを蓄積させて、日本に作品を紹介をしているのかとか。
そういう副次的なことまで含めて、視野が広がったよなと。
そんな気がします。
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このリンクには、イギリスでの古典文学教育の一端について
書かれています。
こういうものも、実際に、何らかの形で、物語の解説や、国語の指導などを
経験して、みると、また味わいが違う。
できれば、イギリスの子供たちが、シェークスピアの演劇をやっている
ところなんてのも、みてみたい気がする。
それは、観光旅行とはまた違ったイギリスのもう一つの顔をみることに
つながるのではないかと。
そして、そんな啓発が、アメリカの作家によって、なされるという
ことも。これもまた興味深いことなのではないでしょうか。

そういう本のことはGreatBooksといってもいいんじゃないかな。
本にも色々ある。
なかには、「この一冊に書かれていることをしっかり理解したい。そしてこの一冊の書物に書かれているテーマを自分の手で明晰にして、世の中に伝えたい。」
そのように決断させる何かがある論文だったり、書籍というものが
あるだろうと。
そういうことをあらためて感じました。
学生時代に、僕が読んだ本の中では、翻訳だけど、
純粋理性批判」なんかもあったな。
懐かしい。
たしか、高校の時倫理の授業で、「純粋」を翻訳するのに6年かける
人もいたとか。
そういうことも聞いたことある。
これやろうとすると、ドイツ語の練習をしないといけないわけで。
そして、この1冊を徹底的にやったら、見えてくることがあるだろうと。
それは、色々な本をうすく浅く読むのでは得られないなにかが
あるのではないのかと。
多読する人と、こういう1冊と心中するつもりで読書するのと
どちらがいいのか。実務ということを考えたら、広く浅く、必要に
応じて、色々な見聞を広げたらいいのだろうと思います。
「研究」となると話は違ってきそうです。
ある分野で、網羅的に、押さえているかどうかより、
ある特定の分野の、ある一点だけでは、誰にも負けないように
研鑽を積むというのが王道だろうと。
こういう発想っていまでもなかなかつかないなって。
そんなことを考えております。
人生があるルールの上で成り立っているゲームなのだとしたら、
ある一点でだけ、一番を目指していくというのが一番ゲームで勝利を
おさえるための効率的ないい生き方なんではないかなと。
そのために、切り捨てるなにかを明確にするという姿勢が
大事なんではないかなと。
そうすることで、「自由」が得られるのかなと。
プロフェッショナルな生き方と。
何でも屋のキャリア。
これも好みかな。
ピンチョンは作家としてのキャリアが長いにもかかわらず、
作品の数が少ない。
メジャーだけど、作品の数が少ないと、本人の作品という第一次資料が
少なくて、すべての領域を見渡すことが出来るという点で
お手軽感があるなと。
そして、一人の作家を丁寧に追いかけてみるということが比較的
やりやすいなと。
こういう作家は、別に彼一人ではなく。
他にもいるわけで。読んでいないけど、ボリス ヴィアンという作家は
残した作品の数があまり多くないらしい。
ブログのような本格的ではない媒体で、「文学研究もどき」をやろうと
する場合、ピンチョンの作品のサイズはちょうどいいのかもしれない。
そして、1つ1つの作品が長大なので、密度の濃い、文学論が書けるなとか。
そんなことも思います。
ひとまず、作品の全部を読んでしまえば、研究論文は2次資料なわけだから。
あとは、ピンチョンの文献がどういう先行作家の作品をつかっているかとか。
どんな素材からストーリーを組み立てているかとか。
そういうところを攻めていくのかなとか。
どうも、文学研究を本格的にやる人はこれがすごいみたいだけど。

最後に。
ピンチョンの作品をこうして通読していく、モチベーションの背景に
「英語の多読教育」の可能性というものを、私自身が確かめてみたかったという
ことがあります。
学生時代には、なんとなく「英語で、何かを読むのは、かっこいい」
みたいな、「文化的な」モチベーションで、読んでいたと思いますが。
主に、資格試験や、受験で英語という試験科目の「読解」のセクションで
安定した高得点が獲得できるようになるために、
常日頃から、大量の英語に触れるのがよいのではないかという、
仮説にのったということ。
そして、この仮説にのって、わりと重い本を読んでみることで、
国語学習というものが、学校にある目的のようなものがより
はっきりと自分なりに見えてきたのもよかったのかなと。
「多読」を意識すると、字数をカウントする必要もでてくるわけですが。
いまのところはそこは、置いておくことにします。
そして、たとえば一人の作家を落とすだけでも相当なエネルギーが
必要なんだということが、体験できたら、「専門をきめる」という
ことの重要性だってわかってくるでしょうにと。
これも大事なんだろうなって。
法学部って、卒論がなくても卒業できるのが、いまとなっては
すこし悔やまれます。

M&D翻訳者柴田先生のあとがきに紹介されていた。
M&Dフリークの人が、M&Dのために作曲したという曲を。
このエントリーの最後に、アップしたいと思います。
いい曲。
たしかに。これを聞きながら、新大陸への冒険ってというのも。
悪くないかも。