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ピンチョンのデビュー作に取りかかりました。
やはり、20代の時に執筆したものだから、もってまわった言い回しとか、
でたらめに長い1文とかが、ない。
辞書をひく、苦労さえいとわなければ、十分、読んでいける感じ。
ピンチョンの作品で、一つ一つのエピソードのありようが、ようやく
おぼろげながら、理解できた。
海軍の風景。戦争中ではなくて、
兵役が休憩になっているときに、居酒屋で、騒ぐというか。
軍隊のPrivateな側面。
Jewish Motherも出てくる。
舞台も途中からニューヨークになります。
ピンチョン最新作は、とことんニューヨークが舞台になっていたので
なぞかけや、パロディなどでかぶるところがないかどうかみてみたいものです。
ユダヤ文化に関するエピソードをふんだんにいれていくあたりは、
Bleeding Edgeでも健在の手法。

dadaistが登場するので。

ダダイスム(仏: Dadaïsme)とは、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。ダダイズム、あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。

第一次世界大戦の1910年代半ばに、ヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークなどで同時多発的かつ相互影響を受けながらその流れは発生した(初期ダダ)。
「ダダ」という名称は1916年にトリスタン・ツァラが命名したため(辞典から適当に見つけた単語だったとも言われる)、この命名をダダの始まりとすることもある(ダダ宣言)。ツァラなどによってチューリッヒで行われた、特にチューリッヒ・ダダと言われる運動は、キャバレー・ヴォルテール(Spiegelgasse 1番地に往時の様子を偲ぶことができる)を活動拠点として参加者を選ばない煽動運動的要素も孕んでいた。1918年にチューリッヒでツァラにより第2宣言がなされる。
同様の活動は各大都市ごとにあったが(→主要都市のダダ)、1919年頃にツァラはアンドレ・ブルトンに招聘されてパリに活動の場を移した(パリ・ダダ)。その後1922年頃にツァラとアンドレ・ブルトンとの対立が先鋭化し、1924年にはダダから離脱したブルトン派によるシュルレアリスムの開始(シュルレアリスム宣言)と前後してダダイズムは勢いを失った。
数年後にツァラとブルトンは和解し、ツァラはシュルレアリスムに合流した。1945年頃、シュルレアリスムも終息した。

表現主義(ひょうげんしゅぎ)または表現派(ひょうげんは)とは、様々な芸術分野(絵画、文学、映像、建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させて表現する傾向のことを指す。狭い意味の表現主義は、20世紀初頭にドイツにおいて生まれた芸術運動であるドイツ表現主義(またはドイツ表現派)および、その影響を受けて様々に発展した20世紀以降の芸術家やその作品について使われる。これには、抽象表現主義などが含まれる。

Gravity Rainbowらしさ。

表現主義建築の背景にあるのは政治的、経済的、芸術的な変容である。ドイツの戦争、共産主義社会主義、内戦、それにともなう混乱といったことの全てが、ユートピアの実現を目指した表現主義の発展に寄与することとなった。社会民主主義や、第一次世界大戦後の疲弊に順応しつつあったドイツ国民に支えられたワイマール共和国の目的は、新しい表現形式の発展を受けて戦前からある事業計画の推進を鼓舞するどころか、むしろ停滞させる気風しか生まなかった。皇帝ヴィルヘルム2世退位後の社会再建も同様である。そこで知識人の左翼的な発想はロシア革命(それはロシア・アヴァンギャルドと並走していた)に似た変革を求めた。ハイコストで壮大なベルリン大劇場の改築は、戦時中の経費や戦後の不景気よりも戦前の帝国を想起させるものだった。

InherentViceで登場したトピック。

映像における表現主義は、1920年代にドイツで発展した。第1次世界大戦後の復興期にドイツ映画はブームを迎えたが、豪華で贅沢なハリウッド映画に太刀打ちするのは経済的な状況から難しかった。ドイツの映画制作会社UFAスタジオは、予算不足を補うため、映画に象徴的な演出を施し、ある種のムードや意味を付与する試みが行われた。最初の表現主義的な映画として、
カリガリ博士』(1919年) - 『Das Cabinet des Dr. Caligari』
『巨人ゴーレム』(1920年) - 『Der Golem』(cf.ゴーレム)
ノスフェラトゥ』(1922年) - 『Nosferatu』
などが挙げられる。これらの映画では、ストーリーが非常に象徴的に、故意に超現実主義的に描写されている。1920年代前半の芸術界は、ダダが席巻しており、ヨーロッパ文化の各方面は、新しい思想や芸術スタイルの実験を通して未来を展望する変革を受け入れていた。これら最初の表現主義的な映画のセットには十分な予算がつぎ込まれた。セットデザインは、でたらめで現実味がなく、幾何学的に狂っていて、また壁面や床には光や影などを表す塗装が施された。表現主義の映画では、狂気、精神異常、背信、などの「知的な」テーマが取り扱われた。
表現主義的な、こうした極端な非現実的な映画の短い流行は、ダダと共に数年で廃れていった。しかし、表現主義映画のテーマは、1920年代、1930年代の映画において、雰囲気を強調するための背景・ライティング・影の配置の芸術的なコントロールの形で受け継がれた。この映画製作の流れは、ナチスの勢力拡大とともにアメリカにも伝わり、数多くのドイツの映画製作者がハリウッドに移り、アメリカの映画界に受け入れられた。特に表現主義の映画に大きな影響を受けたのは、ホラー映画とフィルム・ノワールであった。例えば、カール・レムリとユニバーサルスタジオは、ロン・チェイニー主演『オペラ座の怪人』(『The Phantom of the Opera』)で有名になり、『魔人ドラキュラ』(1931年, 『Dracula』)の撮影をしたドイツ移民のカール・フロイントは、暗く芸術的にデザインされたセットで、1930年代のユニバーサル映画の怪物物のスタイルを築き、後の世代のホラー映画に多大な影響を与えた。また、フリッツ・ラングやマイケル・カーティスは、1940年代の犯罪ものに表現主義的手法を取り入れ、この路線の映画に影響を与えた。