教育のエンジニア 和田秀樹

この人は、やはり面白い人だと思う。
ここ最近、ブログを読んでいて、しびれるのは、この人くらいかな。

【 教科書の下らない規制をやめろ/ 和田秀樹

教科書が自学自習に適したように総ページ数を倍にして、練習問題も豊富
にするという案である。

おお、まともになるということか。
数研出版の数学?や数学Aの教科書は、それはもうひどいもんよ。
問題がのっているのに、解答も解説もなくて、ペラペラで、
教科書それ自身より高い「教科書ガイド」がビジネスとして書店に
並んでいるんだもん。

というのは、2002年のゆとり教育は、もともとは教育の自由度を上げるた
めのもので、学習指導要領が、基本的なガイドラインから、最低基準に変わ
ったことに意味があるとするものだったからだ。
つまり、内容は厳選して大幅に減らすかわりに上は何を教えてもいいし、
先取り学習をしても文句をいわないという考え方だ。

おそらく、これが誤解を広めたのかもしれない。
文部科学省がどれだけ拡声スピーカーで、「最低ラインに過ぎない」といっても、
日本語のリスニング能力に問題のある人間が、そのメッセージを誤読して、
「ここまで、教えたら終り」ということになった可能性は、大きいかもしれない。

熱心でない教師や熱心でない学校にあたれば、最低のこと、低レベルのこ
としか学べないが、たとえば、私立の名門中学は、これまでなら指導要領を
逸脱した入試問題を出せば、形式的であっても始末書のようなものを書かな
ければいけなかった
のに、好きに問題をつくれることになったのだ。
つまり、中学受験に関しては、かえってレベルが上がることさえある。

中学受験をマーケットにしている身としては、いいニュースかもしれないけど、
日本の子供の学力の現状全体としてみたら、まともな事態とはとてもいえない。
民間のビジネスで潤う部分が出てくることと、それが社会全体において、
公共善をもたらすかどうかは、別の問題ということの典型例になっている。
厚生労働省が所轄する医療保険の制度が、機能しなくなったら、民間の
保険会社が、医療保険で、バリバリもうけるかもしれないけど、
それが、「日本の患者」にとって、いいことなのかどうかは、議論がありうるのと
同じことがここでも起きている。

つまり、中学受験に関しては、かえってレベルが上がることさえある。
すると、中学受験のある地域(主に大都会)とない地域(主に地方)、お金の
ある家の子どもとそうでない子ども、親が教育熱心な家の子どもとそうでな
い子どもの差がこれまで以上に開くことになるのだ。

頭脳格差は、経済格差より始末がわるい面がある。
お金のある人と、お金のない人で、頭脳のレベルが同じなら、
「会話」が可能だと思う。

でも、頭脳に格差が出てくると、「会話」が成り立たない。
コミュニケーションの前提が崩壊する。
そんなところで、デモクラシーが機能するわけがない。

議論→決定→選挙→議論→決定→選挙

公立学校がしっかりするしかない。昔と違って、
すべての親が教育熱心であるという前提が崩れたからだ。親をあてにしてい
ると、半分くらいの子どもが取り残されてしまう。だから、我々はゆとり教
育に反対し続けてきた。
ただ、学校によるばらつきは、どうしても避けられない。
それを解決するいちばん現実的な方法は教科書を自学自習に向いたものに
することだ。

希望の火としては、あまりにも切ないけど、ないよりはマシか。
暗黙の前提として、「アメリカの教科書」が念頭に置かれているような気がするよ。
こういう点では、民間の出す学習参考書のほうがはるかに進んでいる。

しかし、授業のうまい教師やプロが真剣につくれば、かなりわかりやすい
教科書はつくれるはずだ。(実際、予備校の授業のライブをそのまま参考書
にした実況中継シリーズという受験参考書が出ているが、そのいい例である)
そして、多くの子どもはわからないということをきっかけにして勉強が嫌
いになる。それを防ぐのにもかなり役立つはずだ。
また練習問題を十分につければ(この練習問題の項が昔の3分の1以下に
まで激減している)、教科書をやっているだけで、参考書や問題集を買う金
のない家の子どもでも、基礎学力をしっかりつけることができる。
そういう点で、分厚いがわかりやすい教科書を作るのは急務だと私は考え
ているが、実際には、教科書には文部科学省のしばりが強すぎる。

たしかに、おっしゃることごもっとも。
だけど、いいテキストがあれば、勉強するだろうというのは、
甘すぎます。親をはじめとした外部スタッフのコミットなしで、
優秀な学力は育ちません。

教科書の検定の問題というと、すぐに歴史の話になるが、実際は理数系の
ほうがはるかに縛りが強かった。

ここに注目するところが、教育エンジニア和田先生のすごいところ。
日本の教育システムが本当に問題にしないといけないところと、
世間で注目を浴びるポイントのずれがどこにあるかが、明確にされている。
歴史の問題なんて、本当にどうでもいいのに。

ただ、唯一心配なのは、無能な教師たちが、自分たちが教えるよりわかり
やすい教科書を、自分たちの体面を保つために採用しないことだ。

これは、ありえるかもしれない。
そして、和田先生が、エンジニアであっても、「教育者」にはなれないかもしれないのは、
彼が、「無能な教師」に対して、言えることがここで終わるからだと思う。
誰が、「無能な教師」の横暴を止めるのかという問題は、
永久に未解決問題として、残されることになる。