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惜しい人物が、物理啓蒙の世界から退場しようとしている。
とは、いっても、また戻ってきたりするかもしれないけど。
物理学関係者が書く書物の最大の難点は、
数式の使い方がめちゃくちゃであること。
もちろん、良心的な人もいるけど。
いきなり登場する数式が、いったい、どの公式を使ったものなのかが、ぱっとみ、
わからないことが多い。
たとえば、ある物体(M)が、止まっている。
という記述があってから、
「だから、Mの速さ(V)には、0を代入しているのですよ。」
と、断ってから、数式を展開してくれたら、問題ないけど、
この断り書きが、とんだ状態で、いきなり、
Vが、くっついている項が、まるごと消えたりするから、つらつら読んでいる読者は
あせる。
こういう、数式の説明上、舌足らずな部分を、たくさんの読者がいる本については、
読者からの訂正という形で、出版社にいくらしく、版を重ねるごとに、
すこしずつ、ましになっていく。
僕が最近、見かけたのは、もうちょっと図形を大きく書いてくれたら、一発で
わかったのに、わざわざ、小さな図形の中に、あれやこれやと、線分が引いてあるので、
中学受験をうける小学生でもわかりそうな、角度の算出が出来なかった。
大きく、図形を書いて、重要な線分や角度をサインペンで塗っていったら、あっというまに
出来たのに。
大学受験の予備校講師は、こういう「穴」を埋めるのが得意という人がいる。
坂田アキラのブログ - livedoor Blog(ブログ)
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というか、それが、大学受験予備校数学講師の「キモ」だと思う。
この竹内 薫という人は、もともと東京大学に文系入学している人だから、
物理学科に進むことになっても、どこかで、数学が苦手だなという意識が
あったらしい。
逆に、そういう人であるからこそ、この人が書く物理の本は、
通常、読者をイライラさせる、「数式展開 説明とばし」アタックがあまり
なかった。
とても、いい説明能力をもった人だと思う。
ファインマン物理学の解説で、本を3冊を出したのも、今のところ、この人だけでしょ。
そんな人がこんな悲しいことをいっております。
日本の物理学は人気が凋落する一方で、一般の人の多くは物理に苦手意識を持っている。学校の試験がトラウマになっている人も多い。
そういった人たちに物理学の面白さを伝えようと20年がんばってきたが、オレも、そろそろ、そういった仕事は卒業する時期に来ているようだ。
科学書界の古い体質を破り、さまざまな工夫をし、新しい流れを作ろうと努力してきたつもりだけど、やはり、独りじゃ「改革」は無理だった。物理を盛り上げる仕事は、若い人に託すことにしたい。(科学書界の「老人」たちと同じ考えの「若者」では、何も変わらないと思うが・・・)
僕も、高校物理 力学で15点の赤をとりました。
私が、高校の学力テストで、赤をとったのは、生涯この一科目だけです。
トラウマになっています。
いまでも、あのとき、答案を返されたときのことを、ありありと思い出すことができます。
それっきり、本当に物理が大嫌いになっていた。
でも、それじゃ、すまないということも、業務上の必要性から、無理やり、気づかされた。
この人も、ナロードニキ運動をやって、散ってしまう人なのだろうか。
ナロードニキ運動創設者の一人ニコライ・チェルヌイシェフスキー
ナロードニキ運動は皇帝アレクサンドル2世によって実施された農奴解放 (1861年) の後に起こった。彼らの主張によれば、農奴は確かに解放されたものの、実態は賃金奴隷として売られ地主が資産家に代わったに過ぎなかった。ナロードニキ運動はそうした現状に対抗する政治勢力として始まった。一方でナロードニキは懐旧的な理想を抱いており、旧来の土地所有制度を嫌悪したが、ロシアの共同体であったオプシチナ(Obshchina) から農民を追い出すことには反対していた。
彼らはまず、小作農とクラーク(富農)の間で増していた対立に注目した。複数の運動グループが結成されていたものの、ロシア君主制とクラークの打倒・小作農への土地の分配を目標としていた点で共通していた。ナロードニキの大部分は資本主義の段階をとばして社会主義を実現できると信じていた。
ナロードニキは小作農が君主制を打倒しうる革命的階級であると判断し、村の共同体を社会主義の初期段階であると信じた。しかし同時に彼らは、歴史は傑出した人物によってのみ作られ、そうした英雄が消極的な小作農を革命に導けるのであり、小作農自身では革命を達成できないと信じていた(参照Great man theory)。 ワシリイ・ヴォロンコフ(Vasilij Voroncov)はロシア知識人に「1870年代の敏感で活発的な時代と対照的に、落ち込んだ精神的無気力から奮起し、ロシア経済発展の科学的理論を作成」することを求めた[1]。しかし、多くのナロードニキ知識人は哲学的、政治的議論にとどまらない即時の革命を求めた。
1874年春、ナロードニキ知識人は「人民の中へ(going to the people)」という言葉通り、都市を出て村落へ向かい、小作農らに反乱を説得して回った。しかし、彼らはほとんど支持を得ることはなかった。
ナロードニキは中流以上の出身者が多かったため、ロシアの小作農に溶けこむこと自体に困難が伴った。彼らは衣装や踊りといった小作農の慣習を学ぶために時間を費やさざるを得ず、また裕福なロシア人は日常においてフランス語かドイツ語を話すことが多かったため、場合によってはロシア語すら学ぶ必要があった。近代化した都市部の文化から隔絶していた農民たちから不審者として扱われ、自警団に追われて農具で回復不能の暴行を受けたり、魔女と見なされて裁判にかけられ火刑に処された者も少なくなかった。ロシア帝国内務省警察部警備局はナロードニキを弾圧した。革命家と彼らを支持する小作農は殴打され、収監され、そして追放された。1877年、ナロードニキは数千の小作農の支持を得て反乱を起こしたが、ただちに容赦なく鎮圧された。
この弾圧に対してロシア初の革命グループ「人民の意志」が組織された。このグループは秘密結社主導のテロリズムを支持し、それを「改革のために政府に圧力をかける手段、大きな小作農の反乱の火を起こす火花、そして体制側の革命家に対する暴力の行使に対する避けられない報復」として正当化している[2]。皇帝アレクサンドル2世
皇帝を小作農によって倒す企ては、小作農が皇帝を「彼らの側の」人物として偶像化していたため失敗した。そこで彼らは、皇帝が神懸ったものではなく殺害できる存在であることを小作農に示すために、テロリズムの実施を拡大させた。「直接闘争」と呼ばれたこの理屈は「政府に対する闘争の可能性の実証を連続させ、この方法で人民の革命精神、さらにその理論の成功に対する信頼を高揚し、そして戦える手段を組織する」ことを示す意図があった[3]。1881年3月13日(3月1日、ユリウス暦)[4]、彼らはアレクサンドル2世の暗殺に成功した。しかし小作農が概してこの殺人におじけづいたことに加え、政府は多くの「人民の意志」の主導者を絞首刑に処したことにより、グループの組織は衰弱と機能不全を招き、活動は短期的に停滞してしまう[2]。
しかしながら、こうした成り行きは運動を終了させることはなかった。後の社会革命党、人民社会党、トルドーヴィキ(Trudoviks)はナロードニキと同様の思想と戦術を採用した[5]。このためナロードニキの方針と活動は1905年と1917年のロシア革命への道筋を開いたものと評価されている。