プログラミング言語C++ (アスキーアジソンウェスレイシリーズ―Ascii Addison Wesley programming series)作者: Bjarne Stroustrup,長尾高弘出版社/メーカー: アジソンウェスレイパブリッシャーズジャパン発売日: 1998/12メディア: 単行本購入: 9人 クリック: 272回この商品を含むブログ (68件) を見る

今日は、イントロダクションや、第1章を読みました。
「やはり、言語の設計者が、自ら筆を執ったというのは、大きい」
つくづく、そういう気持ちにさせられました。

「ゲームプログラマになる前に、覚えておきたい技術」を習う前に、C++を勉強する。 - book-loverの日記

この本を執筆した人が、C++の文法・構文を勉強するとき、教科書として使ったのは
この書籍だけだと、参考文献リストにのっていた。

これならわかるC++ ー挫折しないプログラミング入門 - book-loverの日記

この本を執筆した人も、この書籍を、Aランクの文法参考書として、指定されていた。
いつか、この人にも、静岡県までいって、話を聞きたいと思う。

アマゾンでこの教科書のレビューを読んでいたところ、
立場は大きく二つにわかれていました。

「とても難しいので、いきなり読むことはオススメしない」

もうひとつの立場は、難易度についてはとやかくいわないで

「すばらしい本なので、ぜひともじっくり読むことをオススメします。」

まあ、この二つの立場は、別に矛盾するものではないと思います。
コンピュータ・プログラミングの学習が進んでいなかったら、前者の立場で
発言するだろうし、ある程度、学習と経験が蓄積されてくると、
後者の立場で発言することになるのだろうと思います。

一応、C++に文法・構文に関するテキストは、かれこれ3冊くらいは目を通しているので、
さすがに、初級レベルの理解には達しているのかなと思い、
手にとって見たのでした。

なんか、これだけ、いろいろな鳴り物を事前にきいて、テキストを開くというのはいままで
やったことがないです。
思うと、大学で学習する教科書を選別するなんていうのは、大学生やっていたころの
ひとつのネタだったと思います。
民法で、どの大学の先生の教科書を読むといいのかとか。
そういうの、よく話しました。
いま、おもうと、それ以外のソフトな話ももっとしたらよかったかなとかも思います。

と、まあ前おきのようなものが長くなりました。
さてさて、では、イントロの部分はどうだったのかって、話ですが。

うーむ。
書きながら、テキストを読んで、思いついたことに関しては、どんどん
メモしておいたほうがいいのかな。
いま、私は、この書物に関して、アウトプットを出しているのだということを自覚するように
しましょう。

C++って、結構、わかい言語なんだなって、思った。

この言語の設計に深くかかわった、この本の筆者にダイレクトにあって、本にサインしてもらうには、どうすればいいのか?
そんなことも考えた。

最初に、あとでやることの専門用語は、出さないほうがいいということに関しては、筆者は、禁じてを何度かつかっています。
イントロだから、C++言語の文法の全体の用語を、最初にバンバン使ってしまっています。
つまり、本当のゼロの人が読むと、用語でこけるというつくりになっているということか。

でも、そもそも、自分がどうして、C++という言語の設計をやるようにいたったかとか。
C++という言語が、どういう過程を通じて、無数のプログラマに採用されて、実際のソフトウェアのコードが
記述されるようになったのかとか。
そういったことも、詳細に書かれているので、読み物としてもとても面白いと思います。

コンピュータ・プログラミングの教科書で、とくに洋書に関しては、よくあるかと思いますが。
この書物の筆者も、章の冒頭などで、よく文学作品の引用をよく持ち出してきます。

文学というのは、ある言葉にしづらいテーマ、または、たくさんの人に語られてきたけど、まだいい足りないことがあるテーマ、
価値判断、そういったものについて、たくさんの人の理解が可能な言語をつむぎだして、
それをツールに、多くの人に、そのテーマについて理解させる、または、そのテーマについての自覚を喚起させる、
またはそのテーマについて考えさせるという変化を起こすことを目的として、存在しているように思います。
(使いフルされたテーマ 「戦争反対」「恋愛賛歌」「家族の再生」)

文学に関心がある、文学の造詣が深いというのは、
つまり、それだけ、みずからに語りたいテーマ、内容がある場合、それをすこしでも、明晰な言語によって表現して、
一人でも、多くの人に伝えたいという意思をもつ素養があることを意味していると、私は思います。

この本の執筆者には、そういう教科書執筆者、教育担当者としての、並外れた資質があるのでしょう。

C++という言語の設計作業を、たくさんのプログラマの人たちとの共同作業として、進めるさいの、マネージャーとして、
勤めを果たしたということについても、注目すべきではないかと思います。

大学の教育、専門教育に共通して言えることは、「実用」を目的として、その手段として、「教育」があるということが、
より鮮明になるということがいえる。
とくに、「理工系」といわれる学部の教育内容は、学生に叩き込むスキルの内容がはっきりしている。
「文学」で学ぶスキルとは何かということは、ある程度、年数が必要だが、理工系には、それがない。
おそらく、そのこととも関連していると思うが。
数学や物理の天才的な研究者はみんな若い。

「文学」は人と人がコミュニケーションをとる経験を蓄積させていくなかで、うまいこと自分のいいたいことが伝わらなかったりしたもどかしさや、
伝わったうれしさを、万人に伝えたいという欲求をもたないと、その存在価値を認識して、テクノロジとして、使用するにいたるのには
時間がかかる。
「人づきあい」というものは、ある程度、年齢がいかないと、出来ないものだろうと思う。

プログラミングにせよ、数学の問題をとくにせよ、物理でノーベル賞をとるにせよ、ある難問があって、
とにもかくにも、その問題が解くことができたらいい。
結果だけが問題であって、その解法をほかの人が理解できるかどうか(これは「文学」の問題になる)
ということは、文学ほど、問題にはならない。

数式や、モノを相手にするのか、生身の人間とのインテラクションを問題にするのか違いに由来するのではないかと思う。