Interruption
やれやれです。
なんとか、今週末までたどりつきました。
世間は連休に突入したのだよね。
家族旅行の人とか、東京から地方にいったりするのかな。
旅行か。
学生時代に、アルバイトのお金でトルコやアメリカに
いったのが懐かしいです。
あのころは、楽しかった。
今は、今の楽しみがあるけど。
勤め人をやっている人で、学生時代を過ごした人は似たような
感覚をもっているのではないかなと思います。
大学とは一体何かということに。
この年になっても、こだわっている自分がいます。
それは、いまのような仕事を続けているからということも
あるわけですが。
どうして、学ぶのか?
こういう問題意識が、具体的な形をとりました。
「大学をもっとも有効に活用するためには、どういう
アクションがいいのか?」
設定にたどり着くのですね。
もっとも、大学のような場所をそういう捉え方をしていいのかどうか
というのも、議論のあるところでしょう。
何かの目的を達成するための手段として、とらえるという
だけでは、こぼれおちるなにかというものが、やはり
あるのでしょう。
自分が生きたことの意味を自分で構築するというのは、いわば、自分の全人生の価値を「私造貨幣」で表示するようなものである。
あらゆる貨幣がそうであるように貨幣の価値を決定するのは、それが現に貨幣として流通しているという原事実である。
だから、「私造貨幣」に貨幣としての価値をあたえるのは、それが現に有用であるという事実だけである。
「これを学ぶことが何の役に立つんですか?」という問いを教育の場で許してはならないということはこれまで何度も書いてきた。
学んだことが「役に立つ」かどうかを決めるのは学ぶもの自身である。
価値は知識や情報や技術に内在するのではない。
それを用いる人間が構築するのである。
学生の就職先というものを考えた場合、はたして、ここまでずばりといいきってしまっていいのかどうかは、
多少の疑問が残りますが、
どこかで、わすれられない何かがあるような気もします。
せっかくですので、引用しておきましょう。
「これを学ぶことが何の役に立つんですか?」という問いを教育の場で許してはならない
ここが、分かれ目というか。
はたして、本当にそうなのかどうかというところかな。
追記 その1
http://www.usdoj.gov/opa/pr/2009/September/09-at-1001.html
WASHINGTON – The Department of Justice today advised the U.S. District Court for the Southern District of New York that while it should not accept the class action settlement in The Authors Guild Inc. et al. v. Google Inc. as proposed due to concerns of the United States regarding class action, copyright and antitrust law, the parties should be encouraged to continue their productive discussions to address those concerns. In its statement of interest filed with the court, the Department stated: