LAより母来る。
自宅から最寄の駅にて合流。
その後、大阪にて叔母と合流。
叔母が運転する車にて、祖父母の菩提寺にいく。
そこで、お線香と、蝋燭を購入して、祖父母の遺骨が、眠っている
仏様の像にお参りをする。
一心寺という所で、近代的な建築物が集会所として建てられているかと
思うと、古い昔ながらの様式のお寺が並んでいる。
そんな感じのお寺だ。
車中、いろいろな雑談をしながら、大阪の中心街をドライブすることに
なる。
参拝が終わるころには、すでに昼食の時間帯になっており、
母が、「景気が悪くなって、今は北新地で、手ごろな価格の昼食を楽しめる」
という話をする。
私も叔母もその提案に乗ることになった。
私は、助手席に乗せてもらいながら、契約して1年ほどになるiphone
Google Mapsのサービスを見ながら、大阪の中心街を液晶で見ていた。
今まで、車に乗せてもらっても、どこに何があるのかといったことが、
よくわからないままに、乗せてもらっていた。
しかしながら、Google Mapsが、携帯電話にのっていて、
しかも、GPSの機能が搭載されていることによって、車が移動していく
経路が、鮮やかに見ることができる。
徒歩で、目的地に向かって、移動しているときにも、便利な世の中になったと
思っていたが、車に乗せてもらって、このサービスを使っていると、
本当に楽しくなる。

御堂筋の道路
長堀橋
四天王寺
梅田のビル街
新地の通り

新地のエリアにて、手ごろな昼食をとれる食事所を探して、iphoneのブラウザ機能を
使う。
大阪の梅田の界隈で働いていると思われるOLと自称する人のBlogとかがヒットして、
それを手がかりにどんなところに、どんなスポットがあるのかを探す。
これもまた楽しい。
ただ、やはり、ヒットするところまでにたどり着くのに、時間がかかりすぎるという
難点はあったと思う。

適当なところで、車を駐車してもらい、
徒歩にて、食事をするところを探すことになった。
向かった先は、
つるとんたん」という名前のうどん屋。
とても大きな杯のような形をした黒塗りのおわんに、鍋物のような感じで
うどんが楽しめるようになっている。
すき焼きをあつらえたうどん。
てんぷらをあつらえたうどん。
とろろ、そば、ごはんの3点セット。
ユニークだったのは、かつカレーがのっているうどんもあったことか。
最近は、六本木にも店舗ができていて、といっても数年前であるが、
すでにヒットしているそうな。
どちらが本店なのかな。
お店の雰囲気は、完全にお座敷の形式。
月曜日のお昼時ということもあり、サラリーマンやら、若いお姉さん方やらで
すっかり盛り上がっていた。

最近のロスアンゼルスでの生活事情の話。
大阪発信といわれている携帯電話を装飾するデコという文化について。
弟が、開業したお店の景気のお話。
そんなことを、話ながら、食事が進んでいく。
自分の叔母が、携帯電話のデコレーションにこっていることを知ったのは
意外だった。
たまたま深夜にNHKで、若者の流行を取り扱っている番組で、この「デコ」という
ファッションについて、特集を組んでいた。
専門のお店に行くと、1万円くらいを出すと、装飾のためのツールが山ほど詰まれている
ボックスから、好きなだけデコのグッズを取り出して、携帯電話のフェイスにステッカーのような
形で貼り付けることができる。
叔母の話によると、このデコという作業をやろうとすると、やはりいろいろな困難にぶつかるのだそうだ。
まず、やり方というものがそれなりにあるので、1人で、ネットの通販で買っても、
思い通りのデコにならない。
だから、ある程度、デコという作業に習熟した人から、ノウハウを聞きながら、
うまい具合に、携帯電話を「デコ」していくやり方を習得するということが求められる。
というと、妙な具合な話だが。
そうそう、だからNHKの特集でも、アートスクールといった専門学校が、この「デコ」の技術を
科目として取り扱いを始めたという話をちりばめていた。
なんでも、売れっ子の「デコ」職人になると、月収もかなりいいそうで。
こんなビジネスもあるのだなと思う。
基本的に、東京での生活が長くなっている母は、この文化がとてもめずらしかったようだ。
NHKでも、わざわざ関西の文化だと、「デコ」を紹介していた。
どうやら、この紹介の仕方には、うそがなかったのだと思う。

すっかり、うどんを楽しんでから、では今度は、喫茶店にて、お茶をしようということになる。
私は、話に加わりながらも、iphoneGoogle Mapsが面白くてたまらない。
次はどこに行こうかという話をしているとき、
液晶の画面の中に、
「リッツカールトン大阪」という地名が飛び込んでくる。
以前、マネックス証券の資産運用セミナーが開催されたところで、足を運んだことだけはある。
そのときは、セミナーが開催される会場で、証券会社の人が、投資信託の紹介をしているのを
聞いていただけだった。
今回は、もう一歩踏み込んで、喫茶店の中で、コーヒーやケーキをいただくことにする。
このホテルの名前は、「おもてなし」の評判がいいということで、いろいろな本が出版されていた。
私は、読んだことがないけれど、まあ、お店の雰囲気はよかったのではないかと思う。
喫茶店のスペースの中には、グランドピアノと、ステージがあり、
ロシア系の女性が二人、ピアノと、バイオリンの演奏を始める。
おそらく、誰もが聞いたことがあるはずのクラシックの定番を、次々の演奏する。
それを、聞きながら、主に、女性の人たちが、話を楽しんでいる。
一部、ビジネスマンと思われるスーツ姿の人たちも、なにやら、テーブルを囲んで話をしている。
私と叔母はケーキセット。
母は、シンプルにコーヒーだけ。
後でわかったことだが、こちらのコーヒーはお替り自由。
カップがあくと、スタッフの人がきて、新しいカップに取り替えてくれる。
となりのテーブルでは、イギリス式のスコーンが、タワーのように積まれているアフタヌーンティーという形式で
紅茶を楽しんでいる。
うどんのボリュームが大きかったので、さすがに、ここで、スコーンにまで着手することはできなかった。

いろいろな話をしているうちに、亡くなった祖父母の話になる。
というより祖父の話になる。
どうして、そういう話の流れになったのか、ちょっと思い出せない。
書くという作業は面白い。こうやって、まだあまり経過して間もない出来事を記録してとどめようとしたときに、
いろいろなことを忘れているということを、はっきり自覚する。
「銀行」という職種についての話をしているときだったか。
いや、祖父母が残した家についての話だったか。
とにもかくにも、「管理」ということについて話がいったのではないかと思う。

私の祖父は、すでに経営統合によってその姿を消した銀行に勤めていた。
お客さんになる人が、預けたお金を、正確に勘定する。
預金の引き出し、預け入れ、その帳簿の管理。
貸し出し先の会社の経理の管理。
現実に銀行にあるお金と、帳簿で「あるはずのお金」に数円単位の狂いが生じても、
その狂いがどこの勘定ミスで発生したのかを、正確に突き止めないと、自宅に帰れないという
日々を、ずっとずっと送ってきたそうだ。
正直、ラフで、がさつな生活をしている自分には、信じられないような日々。
私の祖父はそういう日常を送っていた。
生前、そのときの話を、聞かせてもらったことがある。
祖父が、とある支店の責任者だったときは、とにもかくにも、銀行の業務を運営する際の
経費の節減にせっせと励んだそうで。
事務所の中で、勤務時間が終わり次第、こまめに、「電灯を消すように」
「コピーの無駄な作業は、しないように」
そんなことを、いやがることもなく、いってまわったと。
上司、責任者。
こういう立場にある人が、やることというのは、いつだって、こういうものだと思う。

祖父の職務中におけるこの几帳面さ、当然のことながら日常の生活においてもいかんなく発揮されていた。
いや、日常生活の中に、職務に対する姿勢が、悲惨なまでに反映されるというのが、現実なのだろうが。
台所の管理。
食器はどこに置くのか。
洗物はどこに置くのか。
テーブルの管理。
母が、祖父の家で、マーガリンを使用するとき、祖父がちょっといやそうな顔をしていたそうだ。
祖父は、毎朝、版で押したように、同じパターンで朝食を食べていた。
私も、はっきり記憶している。
6枚切の食パン。
それを、一日1枚、マーガリン、ジャムを塗って食べる。
それと、牛乳をコップ一杯。
そう、朝食を食べる時間も、しっかりと決まっていた。
なぜ、そんなことを覚えているのかといえば、かならず、食堂兼台所になっている部屋の小型のテレビで
NHKの朝7時のニュースをやっていたからだ。

おっと、話がそれてしまった。

なぜ、祖父は、母が、マーガリンを使用するときに、いやな顔をしていたのか。
それは、そのマーガリンの「取り方」だったそうだ。
祖父は、マーガリンを「削る」とき、大工の職人さんが、壁に土を塗るような、
コンクリートを、平面にしっかりと敷き詰めるような、
カンナで、木材を削るような要領で、マーガリンを「削らない」と気がすまなかったのだそうだ。
だから、祖父が1人で使用しているマーガリンの中身は、いつも「平ら」になる。
ところが、あまり母はそういうことに頓着していなかったらしく。
マーガリンの真ん中を、一気にすくいとるように、ナイフで、摂取していたとのこと。
今、思い出してみると、私も、祖父の朝食に同席するとき、母と同じことをやっていたように思う。
祖父は、そのとき、私のマーガリンの削り方について、どんな表情をしていたのだろうか。
そんなことを、いまこうして、エントリーを書いている最中に思う。
おそらく、いやな顔をしていたのだと思う。

ありとあらゆることがきっちりとしていた。
そして、自分の稼ぎで購入したマイホームの庭の管理にも余念がなかった。
私が、どうしても、受け入れることができなかった、
というより、コンスタントに手伝うことができなかった作業。
庭の雑草取。
便利な芝刈りの機械を使ったらいいのではないかと、常日頃思っているのだが、
いまだに、この庭は、祖父がなくなった今でも、祖父がいたときと同じように、叔母の
管理によって、存続している。
腰をしゃがませる。
手袋をする。スコップで、草を根っこから抜いていく。
暑い日だろうが、寒い日だろうが、これを続ける。
いや、雑草を取る作業というのは、主に、夏が正念場になる。
これが、いやでいやでしょうがなかった。
しかも、早朝に起きてやるのだから。
情けない孫だったと思う。
庭の管理。
家の管理。
銀行の職務を定年で退いた後も、「管理」はどこまでも続いてた。

そんな毎日にある日、終わりが来た。
叔母が、祖父の自宅に、電話をかけた。
別になんということもない、安静を確かめる電話だったのだと思う。
ところが、電話はつながらない。
叔母の仕事の同僚の人と、叔母が、祖父の家に車で駆けつけてくれた。
時刻は、深夜だったのだそうだ。
毎日の草抜きの管理で余念がない庭先には、洗濯物が、やはりきっちりと
干してある。
電話がつながらないわけだから、中に人の気配はない。
つまり、玄関から、祖父の家に入ることはできない状態になっている。
叔母と、叔母の仕事仲間の二人は、庭にまわって、家に入ろうとする。

庭から、祖父の家のリビングにあたるところの、ガラス扉がみえる。
庭から、ガラス窓を通じて、リビングをのぞく。

祖父と思われる人影が、リビングのテレビの前で、倒れている。
そういうようにうつった。

祖父の体に確実に異変が起こっていたことは確実になる。
以前から、祖父は心臓を悪くしていた。
その手術のために、入院も経験していた。
かなり、悪い病気だったようで、入院して手術を受けてからも、回復するまでに
かなりの時間がかかっていた。

どうやら、ふたたび、心臓の病状が、祖父の高齢の体に一撃を与えていたようだ。

叔母と叔母の仕事仲間の方は、矢も立てもたまらず、ガラス窓を打ち壊した。
というより、中からかかっている鍵を開けるのに最小限の範囲で、
ガラスを割る。
鍵を開けて、
ようやく家に入ることに成功。
倒れている人影に近づく。

すでに、祖父はこときれていたのだそうだ。

苦しそうな表情ではなかったという。

もちろん、叔母は、必死に「おじい、おじい、おとうはん!」
と、泣いて叫んだといっていた。

祖父からの返事はない。

家の電話で、救急車による搬送を依頼する。

病院にて、正式に、祖父の死期について、医師より通告をうける。

ただ、ここで一つ問題があった。
細かい法律などについての話は省略することにする。
問題は、祖父の死が、病院の中ではなかったということだ。
病院で最後を迎えていたのであれば、医師が、法的な手続きにのっとり、
祖父の死を正確にカウントする。

しかし、祖父は、自宅で、息を引き取った。
病院での、医師の診立てなどでも、100%心臓のショックが、致死の原因だという
ことになっているし、それで、まったく問題ないのだろうが、
一応、「形式」として、警察が、「死因」の「確認」をしないといけないという
ことになっている。
そういえば、大学で、「法医学」という講座を、受講していたことがあったっけ。
「死因」というのは、存外、わからないことが多いものだという話だったが。


よって祖父の最期から、まもなくして、所定の手続きをするために、
警察官による「死因確認」が、亡き祖父の自宅で、執り行われることになる。
祖父は、1階で、倒れていたわけだが、一応、確認のために、
祖父の書斎があった2階の調査も、行われることになった。
もちろん、この警察官による確認調査の間、私の叔母が立ち会った。
彼らは、祖父の書斎にいく。
祖父の寝室にもなっていた。
日常の、雑務を終了させた後は、祖父は、そこに閉じこもっていた。
日々の生活について、筆をとり、数十冊に及ぶノートにいろいろなことを書きとどめる。
最晩年の時には、私の家族が使用して、買い替えのために不要になったパソコンを
インターネットに接続して、机に常駐させていた。
高齢者の壁を乗り越えて、パソコン教室での学習内容を消化。
ブラウザの使い方。
電子メールの送受信のやり方。
一通りのことをマスターして、パソコン・ライフも楽しんでいた。
ネット上に、アップロードされていた「マージャン・ゲーム」をとても気に入っていて、
時間があるときは、それを、よく「打って」いたとのこと。

まず、パソコンや、座右の書にしていた本が、並ぶ机を確認。
そして、念のため、机の引き出しも、開けて、チェックすることになった。
引き出しの中には、

鉛筆

ものさし

はさみ

のり

ピン

こういった文房具が、まるで、手術室の道具のように、整然と、並んでいたそうだ。

箱の中に、雑然と入っているのではなく、

道具の一つ一つが、どこに置くべきなのかが、正確に、決まっていたようだ。

確認した警察官は、一言、

「とても、几帳面なお父さんだったようですね。こんな机の引き出しの中身を私は見たことがありません。」

そういって、驚きの表情を隠さなかったそうだ。

祖父の最期がどういうものだったのかは、おおよそ、話として聞いていた。
しかし、亡くなった直後の祖父の書斎での、この警察官の一言は、祖父が亡くなってから数年して、初めて知ることになった。

マルチメディアも何もあったものではない。

ただ、とあるホテルの喫茶室にて、叔母の回想について話を聞く機会があった。
ただ、それだけのことだ。

私は祖父の初孫だった。
私を、当然のことながら、赤ん坊のときより知っていた。
私も、小さいころから祖父のことを知っていたと思う。そのはずだ。

話もした。
祖父の家にて宿泊することも当然した。

しかし、私のそばにいてくれた人がどういう人だったのかということを知るのに必要なことは、どうやら
ただ、その人のそばに現実にいたというだけでは足りないようだ。

ここまで、書きながら、そんなことが頭によぎる。

ホテルでの、会話の時間は、終了。

母は、東京行きの飛行機に乗るために、伊丹の空港に移動する必要がある。
ホテルでのチェックアウトを済ませて、車にて移動。

心斎橋を通過する。
ここは、おそらく大阪でも指折りの、洗練された通りだと思う。
ここが東京ではない悲しさかもしれないが、このような文化を感じさせる通りは
ここだけなのかもしれない。

アイスフィギュア・スケートの話。
復帰して鮮やかな勝利をつかんだ、プルシェンコというロシア人選手の話。

私の両親が、日本に残していったプリウスという自動車の話。

そんなことを、話しているうちに、空港に着く。

そのとき、印象に残った話が一点。

私の弟の言葉の使い方という点について。

叔母は、時節、私の家族が、いるところに、同席することがある。
とある時も、弟が、両親に対して、いろいろな会話をしているのを聞いていた。
そのとき、どうやら、弟の口の聞きかたというものについて、気になることがあったそうだ。
なんというか、長幼の序というか。
「そんな言い方、両親にむかったないやろ」
と。

そんなことを思うことが時節あったそうだが。

話をされている私の両親にそれをとがめだてをする気配がまったくなかったので、
直接、口に出すことはなかったとか。

そんな弟も、今日、お寺で参拝した祖父の前では、
きっちりとした言葉遣いをしていた。

そういえば、そうだったねと。

私も、この事実については同意した。自信をもって、確かに、私の弟の祖父に対する言葉の使い方は、

しっかりとしたものだったと、記憶していると、いえる。

祖父に、口の聞き方というものについて、注意されたことなども、弟にはなかったのではないかと思う。

しかしながら、そんなことを、言われなくても、祖父には、家族のすべてに、居住まいを正させる何かが、
あったのだと考える。

そう、家族の健康というものについても、話を聞いた。

とある人で。
弟が失踪した人の話。
突然、職場からいなくなったのだそうだ。

そして、福岡県にて、自殺未遂の現場で、発見。

いろいろなことが原因になって、追い詰められていた弟さんのことを、家族は、いろいろな困難な中
余裕がなくて、彼を、気にすることはできなかったという。

もう1人は、家族を困窮させる老婦人について。
実の娘の気苦労というものを、一切考慮しないで、自宅での生活にこだわり続ける。
高齢による心身の衰えが、それを許さない段階になっても。
周囲の援助なしでは、生活が成り立たないということになっていても、
追い詰められた自分の生活状況について、あらゆるケアを要求する。
ホームに入居したら、そこそこの費用にて、安定した生活を送ることが可能なのに。
自宅による介護を希望して、平均的な家庭からみると、恐ろしい金額の人件費が
かさむようになるという事態に直面したそうだ。
老婦人の、ホームへの入所が、いろいろな偶然と幸運が重なることで実現して、
なんとか、ひと段落したそうだ。

私は、話を聞いていて、老婦人と、彼の息子の嫁さんの関係の話なのかと勘違いしていた。
そこのところを、確認してみると、別に義理の娘でもなんでもなく、まぎれもない実の娘に
かなりの、気苦労をかけていたということで。

私は、親子の現実。
家族の現実というものについて、あまりにも、知らないことが多かったのだなということを、思い知らされた。

私の両親が、祖父母についてこんな形で追い詰められたことは、幸い、見たことがない。
今日の叔母と母の話によると、たしかに、そんなことも、一切、迷惑という形で、周囲には
撒き散らすことがなかったとのこと。
それは、私も見ていたことだが。

幸福や、平和というものは、
現実に起こらなかったことが、一体なんであるのかを、加算していかないと、
測定できない部分がある。

なかったこと、おきなかったことが、一体、どういうシナリオであったのかを、どんどん数え上げていくという作業は
難しい。

でも、この作業を抜きにして、「幸せ」を考えることができないなと。

私はこの5年間、親子、家族の姿を見つめ続けた。

別に何が起きるわけでもない。

家庭の日常というものを見つめる中で、日々の糧を得てきた。

日々の生活の中のどこかで、「幸福の条件」というものを探していたのかもしれない。

今日という一日は、この探し物の毎日の中で、どうも記録しておきたい何かがあった。

それがなぜなのかを、問い詰めていくことは、残念ながら、もうここではできないような気がする。

時計の針を見ながら、ここでキーボードを打つ手をやめることにしたい。