オイラーの贈物

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第10章 フーリエ級数

10−1 ベクトル空間

10−2 無限次元空間

10−3 フーリエ級数

10−4 フーリエ級数の応用

見慣れない関数。扱いにくい関数を、扱いやすい関数で、解析できるようにしていこう。
「解析」の流れって、ようするに、そういうことなのでしょう。

wikipedia:ジョゼフ・フーリエ

固体内での熱伝導に関する研究から熱伝導方程式フーリエの方程式)を導き、これを解くためにフーリエ解析と呼ばれる理論を展開した。フーリエ解析は複雑な周期関数をより簡単に記述することができるため、音や光といった波動の研究に広く用いられ、現在調和解析という数学の一分野を形成している。
このほか、方程式論や方程式の数値解法の研究があるほか、次元解析の創始者と見なされることもある。また統計局に勤務した経験から、確率論や誤差論の研究も行った。

数学は、業務スキルだと思っているので、アカデミックな話は嫌い。
フーリエのような人の経歴をみていても、「業績」「書かれたもの」も、大事だけど、「仕事」「日常」が気になる。
机に座って働いていたということか。

教育現場につきまとう、悲しい空気が伝わってきます。
教会の影とかね。
論文などで、書かれた内容が多くの人に読まれる。
それが、「学問的業績」という名前のしたに、受け継がれていくということと、
「それを書いた人間の生活」は違う。
前者は、紙の内容の話だが、後者はライブな問題です。
つまるところ、どちらの世界に自分のエネルギーを使いたいのかということか。
政治家は、ライブな世界。
学者は、ペーパーの世界。


フーリエは1768年3月21日に、フランス中部、ヨンヌ県のオセール仕立屋の9番目の息子として生まれた。8歳のときに父親の死去によって孤児となり、地元のベネディクト派司教のもとへあずけられた。司教はフーリエを同じくベネディクト派の僧侶が経営する陸軍幼年学校へ入学させた。そこで彼は早くも数学に興味を示し、夜中になってから蝋燭の燃えさしを集めて一人で勉強に没頭した。
当時数学を教える学校は士官学校しかなかった。フーリエ貧乏な身分で軍人になれなかったため、卒業後彼は僧侶たちの勧めに従ってサン・ブノワ修道院(聖ベネディクト修道院)で修道士として修行を始めた。修道院でも、並行して数学を学んだ
1789年、フーリエは『定方程式の解法』と題した論文を発表するためパリへ向かい、そこでフランス革命に遭遇した。身分から開放されたフーリエは、故郷の友人たちのはからいで幼年学校の数学教師になった。当時の政治状況から、彼はオセールの革命委員会に加わり、その委員長となった。ロベスピエールの政府との対立から、フーリエは要注意人物とされ、逮捕されるなど政治的弾圧を受けることになる。

高校数学チャート式という学習参考書がある。
最近、改定されて、冒頭に、ガロアという数学者のエピソードが掲載されていた。
彼も、フランス革命に没頭していたとのこと。
軍事組織というものが、そのまま数学の教育機関であったという沿革にもひかれる。数学の成績が、よかったマクナマラというアメリカの政治家が着手したのも、たしか米軍の費用対効果の合理化だった。

革命のライオン (小説フランス革命 1)

革命のライオン (小説フランス革命 1)

フランス革命後の恐怖政治によって、多くの科学者が処刑されたり亡命したりしていた。しかし科学の復興が必要と考えた革命政府は学校の設立を奨励し、パリにエコール・ノルマル・シュペリュールやエコール・ポリテクニークといった新しい高等教育機関グランゼコール)が創設された。
1794年、フーリエはエコール・ノルマル・シュペリュールに第一期生として入学した。エコール・ノルマル・シュペリュールは翌年一時閉鎖されてしまうが、才能を認められたフーリエラグランジュやモンジュのもとでエコール・ポリテクニーク築城学の助講師に、のち解析数学の教授になった。ここの講義の中で、彼は代数方程式の実数解の個数に関するフーリエの定理を証明した。

政治的な動乱。あらゆることを牛耳っていた連中が、倒されて、新しい階層が、支配権力を掌握するとき、またはそのような気配を見せるとき、
科学者が、リンチにかかっていたというのは、興味深い。

フランスに帰国したフーリエは、エジプト遠征中に発揮した行政・外交手腕をナポレオンに認められ、1802年1月2日にイゼール県知事に任命された。知事としては、革命後悪化していた治安の回復、トリノへの道路の建設、ブルゴア沼沢地の干拓、マラリアの一掃などといった事業を行なった。これらの功績を称えられ、1808年に彼は皇帝に即位していたナポレオンによって男爵に叙された。
知事としてグルノーブルに赴任していた時代は、フーリエが生涯の中でもっとも精力的に活動していた時期だった。知事として多忙な職務をこなし、エコール・ポリテクニークから続けていた方程式論の研究をする一方、固体内における熱伝導を数学的に研究した。

ちゃんと、世俗的な成功をおさめることができた。
よかったよかった。
スキルは、売って、お金にして、何ぼだと思いますよ。
昨日、取り扱った、ハミルトンとは、かなり色彩が違うなと思います。

と思っていたら、人生なにがあるかわからないもので、どうやら波乱があったようです。この人の人生には、どうもナポレオンという軍人・政治家の影が付きまとっている。
ランダウという数理物理学者に、スターリンという政治家が、付きまとっていたのと、おなじオーラのようなものがあるのかな。
科学者というフィルタを通じて、「政治」の世界を見るというのも、ひとつの方法だと思う。

ライプツィヒの戦いで敗れたナポレオンは、1814年に退位してエルバ島へ流された。しかしフーリエラプラスらとともに寝返ってルイ18世に忠誠を誓ったため、知事を続けることを認められた。
ところが翌1815年3月1日、エルバ島を脱出したナポレオンはフランスに帰還し、パリへ向かって進軍を始めた。エジプトで置き去りにされたことを覚えていたフーリエは自らリヨンへ赴き王党派に通報したが、グルノーブルへ戻ってみるとそこはすでにナポレオンに占領され、部下の兵士たちはその下についてしまっていた。捕らえられたフーリエは再びナポレオンに従ってローヌ県知事に任命されるが、後に強権的姿勢に反対して辞職した。
ワーテルローの戦いののちナポレオンはセントヘレナ島へ流され、フランスはみたび王政に戻った。復位したルイ18世は裏切りを許さず、フーリエは罷免された。フーリエはパリで財産を売りながら糊口をしのいでいたが、それをみかねた友人のセーヌ県知事シャブロル伯によってセーヌ県統計局長の職を用意してもらうことができた。このころ、職務の関係から生命保険に関する研究を行なった。

1816年、アカデミー・デ・シアンスはフーリエを会員に推薦したが、ルイ18世はそれを認めなかった。しかしアカデミーは抵抗し、翌年彼は会員に選出された。さらにその後もルイ18世ポアソンの反対にもかかわらず勢力を伸ばして1822年には終身幹事に、1826年にはアカデミー・フランセーズ会員となった。他にもラプラスの後をついでエコール・ポリテクニークの理事長になるなど、フーリエの晩年はナポレオンに最後まで従ったため悲惨な末路を辿ったモンジュなどと比べれば、名誉に満ちたものであったといえる。権力欲も旺盛だったようで、当時パリに来ていたアーベルはその学界への君臨ぶりを伝えている。
フーリエの最後の数年は、過去の研究をまとめ、それまでに発表した論文を出版するために費やされた。また、後進の指導にも力を注いだ。たとえば、フーリエ級数が収束するために必要な「ディリクレの条件」を導いたディリクレは彼の教え子の一人である。
1830年5月16日、下院の選挙でシャルル10世に対する反対派が圧勝し、世情が再び革命(7月革命)へと動いていく中でフーリエは息を引き取った。63歳だった。心臓病だったとも、動脈瘤だったともいう。
20代の頃から続けていた方程式論の研究をまとめるべく全7巻の予定で執筆途中だった『定方程式の解析』は、ナヴィエが遺稿をまとめて1831年に2冊だけが出版された。

その他の業績 [編集]
フーリエの最初の論文は方程式の数値解法についてのもので、方程式論や方程式の解法に彼は終生興味を持ち続けた
熱伝導方程式を解くとき、フーリエは単位に注目して解のあたりをつけるということを行なった。これは次元解析のはしりであった。