東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法

東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法

本の1ページにこの書籍の筆者が高校3年生の受験生のときに走り書きしたというメモが
そのまま掲載されている。
数学の成績向上に、地道な努力というものが必ず重要であるということは
論を待ちませんが、なんらかの「指針」というか、
TIPSというようなものは、あるのではないかなと思います。
たくさんの練習をこなしていく中での力に、もう一歩の上積みを提供する何かが、数学には
あるのではないかなと思います。
これは、特に「思考力」を要求される設問に多いと思います。
どうしても、断片的な「教え」になってしまうので、体系化が難しい「何か」です。
下記の引用には、そのとらえどころのない「断片的」な「TIPS」が、ちりばめられているように思います。
この記述を読み進めていると、数学の問題でブレークスルーを発見したときの、記憶が
復活するような気がするのです。
つまり、実際に、数学の解答で点数を伸ばしているための、具体的なアドバイスとして、大変優秀なのでは
ないかなと、思うのです。
以下、記載されている内容を、引用に使います。

解析 or ベクトル
東大ではパターンでは問題を出してくるが、あせらず、具体化して、その問題の特殊性を考察すれば
必ず解けるはずである。なぜなら、高校数学の範囲で一般的な議論のできるものはすべてパターン問題であり、
パターンをはずしてくるとすれば、議論しやすいおいしい条件がついてくるはずだからである。なお、
パターンはこのノートの網羅している。

解答方針を明記して、部分点を稼げ。
「概形」を図示せよ。→注意。
東大型の立体図形は対称面で切る。(正射影)
与えられた座標軸や関数形に必然性はあるか。自分でとことん設定せよ。

頭を硬くした瞬間に負け

本番では試行錯誤の鬼となれ。 やる前から勝手にあきらめるな。
迷っている暇があるなら試行せよ。
解法は必然的偶然により浮かび上がる。

くだらぬ意地をはらずに、つまづいたら先へ行け。
これが鉄則だ。

明らかではない計算を勘で示すとは何事か。 具体化せよ。

面倒くさがるな。本番だぞ。

本書19ページ

そのとき、とくに力をいれたのが暗記と高速化。前期までに習ったことをどんどん暗記していき、
暗記しても人間はすぐに忘れてしまうので、繰り返し暗記することでメンテナンスもしっかりと
やっていきました。
 さらに高速化。そのころ、スピードにとても興味があったので陸上用のストップウォッチを用いて
解答時間を記録し、問題を解くスピードの高速化に注力していました。当時の私の口ぐせは
「マシンになれ」 オリンピック選手をライバル視していたくらいです。

おりしも、NHKでは、バンクーバーオリンピックをやっています。
よく考えると、オリンピックの競技って、時間で競争する種目が多いよね。
そういう類似点を見つけるセンスって、いいなと思います。

↓これって、本当なのかしら。目の前で確かめてみたいですが。

代々木ゼミナールのセンター模試の英語を8分で解いて満点。
数学は5分で解いて満点。
さらに本番のセンター試験では物理が3分で満点という記録を出し、これには
非常に達成感がありました。

このときの経験から、成績をアップする上で高速化が効果的であることに気づき、
それ以後、私の勉強方法の中心になっていきました。

いわれてみると、刑法の択一を受験していたとき、時間が間に合わなくて、完敗だった
ことを思い出します。

本書31ページ

もうひとり、物理の公式がどうしても覚えられない生徒がいました。そこで私は当面必要な公式を
3つずつ、トータル10個を2時間かけて覚えてもらいました。さらに次は授業でも復習。
ようやく10個の公式が頭に入ったところで、さらに次の10個を追加し、同じ方法で
覚えてもらいました。
 これを繰り返し、2ヶ月かけて基本的な公式を覚えてもらった結果、30台だった物理の偏差値が78にまで
伸びました。

本書60ページ
ここが、読んでいて、一番衝撃をうけたような気がする。

キーワードは300回
繰り返すことで「無意識化」させる。
「知識」には、「頭で理解する」レベルと、「体が覚えている」レベルがあります。これは前述した
とおりです。
本章では、後者の「体が覚えている」ようにするための方法を紹介していくことにします。「体が覚えている」レベルとは、
「無意識で実行できるようになる」ことです。このレベルにいたることは、、勉強であれ、スポーツであれ、
芸事であれ、何かを身につける際の「究極のゴール」といえます。というのも、無意識レベルにいたれば、「楽に、早く、しかも正確に」実行できるようになるからです。

たとえば、「試験本番」は極度の緊張状態にあります。この中にあって、無意識レベルにいたっていれば、
リラックスした状態で解答していくことができます。そのため、試験にといて、自分の実力を十分に発揮することができるのです。これには、意識レベルで行っている人はとうていかないません。
このレベルにいたるには、練習しかありません。練習で大切になってくるのは、「量」や「回数」です。そのため、「練習する」は「繰り返す」と言い換えることができます。知識にしろ、動作にしろ、何度も繰り返すうちに、内容や動きを頭と体が自然と覚えていきます。人は、繰り返しているうちに、無意識で実行できるようになるのです。では繰り返すとはどのくらいなのでしょういか。
それは、「人に」によっても「分野」によってんも異なるのですが、私の目安はだいたい「300回」。これくらい繰り返すと、だんだんと無意識でも行えるようになっていくはずです。

中略

ただし、「300回」といっても、実際に300回問題を解いたり、暗記を繰り返したりするわけではありません。
「覚える」「わかる」「なれる」の3つを進めていく中で、自然に回数を重ねることができます。また、
知識は一つひとつ独立しているわけではないため、別の項目を勉強しているときに、周辺情報として登場すれば、そこでまた1回繰り返すことができます。そうした積み重ねによってトータルでカウントすると、だいだい300回くらい
にはなっているというわけです。

先ほど、私は気に入った本は1000回以上読むと述べましたが、これもそのつど、じっくりとよんでいるわけではなく、パラパラと目を通すだけです。読んでいて、ゆっくりと読みたい箇所があれば、ゆっくり読みます。また、読んで、いる最中にアイデアがポッとでてくれれば、そのときは本の内容からはなれ、アイディアに注意を移します。
人生の状況は日々刻々と変化していくので、同じ本であっても、時間を変えて、読むことで吸収できる内容が変わっていきます。そのため、ときどき、「今の自分の人生に具体的に適用できることは?」と
探しながら、よんでいくこともします。パラパラ読んだり、じっくり読んだり、「注意力を変えながら、読む」という感じです。
このようにさまざまな読み方を繰り返していき、きがつけば、1000回以上読んでいたというわけです。
読書にしろ、勉強にしろ、おもしろいことに、回を重ねるにしたがって、なれていき、読むスピードや解くスピードがアップしていきます。その結果、繰り返しのカウントが加速的に早くなり、あとちうまに300回くらいかるくこなせるにようになっているはずです。そんなに深く考えずに気楽に繰り返していってください。
まずはなんでもいいので1冊からはじめてみましょう。

300回は思いもよらなかったよ。
でも、経験を得るということを、今の仕事でしていることで、ようやくこういう「教訓」の重みが
体に伝わってくるようになった。
受験に挑んでいくって、こういうことなんだよなって思う。
たしかに、低いハードルでいいから、なにか、300回やってみたくなります。
本で、それくらい読んでみたいテキストに、自分はいままで、出会ったことがあったかな。
うーむ。ちょっと怪しいな。

筆者はのべにして1000人以上の生徒の学習指導に、1対1でかかわってきたという経験があるといっている。
私は個人的に、これは事実なんだろうと思っている。
問題を解くスピードの重要性というものを、無視して受験の指導にあたっている人はいないと
思う。
私も、ここまで、きれいな言語化ができていなかったけど、「時間」を計るということには「それなり」の
「尊重」はしていた。
でも、こういう記述を読解していると、やはり「それなり」でしかなかったのだなと思う。
経験的に、学習塾の実力テストで、常にトップクラスにランクしている生徒さんの解答時間は、おそろしく
速いらしい。
なぜか、そういうことができるという生徒さんは確かにいるだろうけれど、根源的には、やはり
「繰り返し」による「無意識化」が完成していたのだろうなって、思う。
私は、生徒に、「この課題をやるとき、時間は気にしなくていいですか?」と聞かれることがある。
「とにかく、消化してしまえばいいや」と考えてしまって、
「今回はいいよ」と流してしまうことがある。
こういうことは、よくない。
と改めて、この記述を読んでいて反省する。

そして、この300回繰り返し練習論から、一つの実践的な考察が導かれるように思えます。
それは、学習塾の算数の指導、数学の指導の有効性です。
この「300回繰り返しメソッド」ができるような保障が、学習塾の現在のカリキュラムでは成立していないという
ことです。
「300回繰り返しメソッド」は、学習する内容を、すべて自分でコントロールすることができる環境が
保障されていないと、とてもできるものではない。
学習塾が毎週出してくる課題を消化するだけで、アップアップしてしまい、「300回繰り返しメソッド」など、
遠く及ばないという状態の生徒を私は何人も見てきた。
そして、私はそのとき、筆者のこういう問題意識をもっていなかった。
環境に流されていたなと思う。

そして、この実践的な考察から一つの「希望」のようなものを見出いだすことができるように思う。

組織的な学習塾の指導に対して、ゲリラ的な指導がシステマティックに勝つことが、個別指導ではできる。

学習塾は、課題を膨大に出すことで、「量」と「繰り返し」を担保しようとしている。
そうではなくて、学習する量、「試験に関する全情報」をしっかりと限定して、「300回メソッド」を
実行に移す。
こうすることで、課題が膨大に出されることで起こる「消化不良」が起こらないようにすることができる。


復習への執着は、そこそこでした。
この本の筆者は
「2回目の復習は、1回目より早い」
「最中の復習 直後の復習 毎日復習」
という「格言」もつくっている。
よくよく考えてみたら、ここにも独創性などかけらもないわけですが、実際に目の前にいる生徒さんに
たいしての訴求がとてもよいように思います。


本書113ページ

受験数学の一般的解法
問題状況の把握 (具体例・視覚化・対称性) 方針は目標ズバリ 直接無理なら評価する。

ある未知数aを求めたいときには、直接求めずとも、未知数aが満たす式を作り出すのがよい。

答えだけ出す→答えへの見当

論理構造の解析 取り出し一意性 同値性
きついところから押さえ込む ピチピチはねる
しぼられたら元に戻す。しぼったところは考えない
何を変数にするかが、大問題

場合分け その1 その2 その3があるとき、

その1が難しければ、その2に取り掛かる。
その1 その2が難しければ、その3から取り掛かる。
とにかく立ち止まるな。

目標のすり替え (同値変形)
解法の数え上げ トライ 発想を書き出す。
解けることの確認
計算(莫大な計算量は計算ミスor解法ミス
答案 座標軸には意味をもたせる。
検算

必ず解ける

無理やり解け
困難は因数分解
確実な解法を用いよ(点数速度)

計算は分割したほうがラク
代入はできるだけ最後に
代入では満たす式を大切にする。

数学では余分な労働はしない→対称性と周期性は意地でも利用

相似と漸化式 (差の関数)→共有点→因数分解

暗算によるミスを疑え。

本書115ページ

たとえば、数学であれば、解けると思って解き始めて5分みても解法が思いつかなければ、いさぎよく
次の問題にいきましょう。

証明問題は1行ごとに見直す。
数学の証明問題の場合、実力にある程度自信がある人は、最期までいったあとに最初から見直すのではなく、
「1行やったら見直す」を繰り返していったほうが速くなります。
これは、全部書いてから、見直して、途中に間違いを発見した場合、そこから先をすべて書き直す必要が
出てくることがあるからです。
1行ずつ見直すならば、その1行を修正するだけですみます。また、途中でまちがえているのに、それに気づかずに
どんどん証明を進めてしまった場合、実際の問題よりもむずかしい問題を解いていることがあります。
これは相当な時間のロスになります。「あれ、おかしいな」と思ったら、解答のはじめまでもどって見直します。それでもおかしい感覚があれば、問題文にもどって、問題文から見直しましょう。

証明問題に限らず、「計算」でも似たようなことはあります。
そばで見ている人間は、こういうことに神経を尖らせる必要もありますな。
最近、できていないですよ、これ。
後で気がついて、時間のロスに気がつく。

本書190ページ

単純な繰り返しの人生などない。

たとえば、私はこうして大学受験の勉強を押しています。つまり、高校範囲をぐるぐる繰り返して、勉強し、
教えていることになります。これは一見、進んでいないように見えます。
実際、生徒がどんどん新しい範囲を勉強してゆくのを見守っていると、私自身「私は進歩していないのでは
ないか・・・」そう思ったことがありました。
「自分は何をしているのだろう」と。

しかし、「いま、自分の目の前にはこれがあるのだから」と、気持ちを整えなおして、進めているうちに、
新しい世界が見えてきて、使命感も見えるようになってきました。いま、こうして本を書いているのも
その成果だと思います。
だから、「繰り返しには、無限の価値がある」と思います。
餅つきでも、杵は繰り返しの動作を続けますが、もちは練られて、変わってゆきます。同じように見えても、そこには進化があるのです。

学生をやっているときは、どんどん学年があがるとか、学校そのものが変わるとか。
自分で積極的な行動をあまりしなくても、周囲がかわっていくということがあります。
でも、勤め人になると、バンバン転職する人生などを選ばないかぎり、
一つの場所に、ずっといて、同じことをしているような気持ちになります。
これは、人によっては、結構キツイ。
ダメージになります。
なんなんだろう。きっと自分の中の何かが、侵害されているようなそんな気持ちになる。
でも、ある程度、そういう「キツサ」を受け入れるということはどこかでしないといけないと。
そういうときは、トコトン突き詰めますと、「考え」をかえるということになります。
同じ場所、ずっと、そこにいるということについての「見方」をかえることで、今の自分をなんとか
肯定する。

「繰り返しには、無限の価値がある」

繰り返しの演習が大事になりますということは、色々な本に書かれている。
でも、ちょっとの違いで、言葉として響かない。
でも、どうもこの本には、違う力があるのかもしれない。

ずっと同じことを繰り返しているときに、シンドイと思うのは、「他に、なにかあるのではないか」
という考えが頭をよぎるからではないかな。
世の中が、大きな遊園地のようにみえて、一つのアトラクションにだけずっといるのが
絶えられないというか、そんな感覚。
「錯覚」なのだと思います。

でも、最近、私が経験の中で思うのは、「遊園地」全体のたった一つのアトラクションにずっと乗っている
中で、そのアトラクションが、他のアトラクションとどうやってつながっているのかが、見えることが
たまにあるということです。(仕掛けが一緒だったり。開発の設計に共通点があったり。沿革に関係があったり。)
思ってもいないつながりがあったりします。
地図を見る限り、端っこと端っこにあるようなアトラクションが、実はものすごく深いところで
関係があるとか。そんなことを実感することがあるのだと。
そして、そんなことを見つけることができたとき、
ただ、自分がいるアトラクションのずっと先にある「別物」の中にいたいとか、そのそばにいたいとか
思っているときよりも、「地図」や「テレビ」で見ていた別のアトラクションの本質がすこし
見えるようなそんな気になります。

だったら、一つのアトラクションに乗り続けることを通じて、広い広い地図の、目に見えない「全体」が
ようやく見えてくるようなそんな経験を、得ようとまっていたほうが、長い目でみたらいいのではないかなとか。
そんな心境になることがあります。