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- 作者: 吉永賢一
- 出版社/メーカー: 中経出版
- 発売日: 2008/08
- メディア: 単行本
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本の1ページにこの書籍の筆者が高校3年生の受験生のときに走り書きしたというメモが
そのまま掲載されている。
数学の成績向上に、地道な努力というものが必ず重要であるということは
論を待ちませんが、なんらかの「指針」というか、
TIPSというようなものは、あるのではないかなと思います。
たくさんの練習をこなしていく中での力に、もう一歩の上積みを提供する何かが、数学には
あるのではないかなと思います。
これは、特に「思考力」を要求される設問に多いと思います。
どうしても、断片的な「教え」になってしまうので、体系化が難しい「何か」です。
下記の引用には、そのとらえどころのない「断片的」な「TIPS」が、ちりばめられているように思います。
この記述を読み進めていると、数学の問題でブレークスルーを発見したときの、記憶が
復活するような気がするのです。
つまり、実際に、数学の解答で点数を伸ばしているための、具体的なアドバイスとして、大変優秀なのでは
ないかなと、思うのです。
以下、記載されている内容を、引用に使います。
解析 or ベクトル
東大ではパターンでは問題を出してくるが、あせらず、具体化して、その問題の特殊性を考察すれば
必ず解けるはずである。なぜなら、高校数学の範囲で一般的な議論のできるものはすべてパターン問題であり、
パターンをはずしてくるとすれば、議論しやすいおいしい条件がついてくるはずだからである。なお、
パターンはこのノートの網羅している。解答方針を明記して、部分点を稼げ。
「概形」を図示せよ。→注意。
東大型の立体図形は対称面で切る。(正射影)
与えられた座標軸や関数形に必然性はあるか。自分でとことん設定せよ。頭を硬くした瞬間に負け
本番では試行錯誤の鬼となれ。 やる前から勝手にあきらめるな。
迷っている暇があるなら試行せよ。
解法は必然的偶然により浮かび上がる。くだらぬ意地をはらずに、つまづいたら先へ行け。
これが鉄則だ。明らかではない計算を勘で示すとは何事か。 具体化せよ。
面倒くさがるな。本番だぞ。
本書19ページ
そのとき、とくに力をいれたのが暗記と高速化。前期までに習ったことをどんどん暗記していき、
暗記しても人間はすぐに忘れてしまうので、繰り返し暗記することでメンテナンスもしっかりと
やっていきました。
さらに高速化。そのころ、スピードにとても興味があったので陸上用のストップウォッチを用いて
解答時間を記録し、問題を解くスピードの高速化に注力していました。当時の私の口ぐせは
「マシンになれ」 オリンピック選手をライバル視していたくらいです。
おりしも、NHKでは、バンクーバーオリンピックをやっています。
よく考えると、オリンピックの競技って、時間で競争する種目が多いよね。
そういう類似点を見つけるセンスって、いいなと思います。
↓これって、本当なのかしら。目の前で確かめてみたいですが。
代々木ゼミナールのセンター模試の英語を8分で解いて満点。
数学は5分で解いて満点。
さらに本番のセンター試験では物理が3分で満点という記録を出し、これには
非常に達成感がありました。
このときの経験から、成績をアップする上で高速化が効果的であることに気づき、
それ以後、私の勉強方法の中心になっていきました。
いわれてみると、刑法の択一を受験していたとき、時間が間に合わなくて、完敗だった
ことを思い出します。
本書31ページ
もうひとり、物理の公式がどうしても覚えられない生徒がいました。そこで私は当面必要な公式を
3つずつ、トータル10個を2時間かけて覚えてもらいました。さらに次は授業でも復習。
ようやく10個の公式が頭に入ったところで、さらに次の10個を追加し、同じ方法で
覚えてもらいました。
これを繰り返し、2ヶ月かけて基本的な公式を覚えてもらった結果、30台だった物理の偏差値が78にまで
伸びました。
本書60ページ
ここが、読んでいて、一番衝撃をうけたような気がする。
キーワードは300回
繰り返すことで「無意識化」させる。
「知識」には、「頭で理解する」レベルと、「体が覚えている」レベルがあります。これは前述した
とおりです。
本章では、後者の「体が覚えている」ようにするための方法を紹介していくことにします。「体が覚えている」レベルとは、
「無意識で実行できるようになる」ことです。このレベルにいたることは、、勉強であれ、スポーツであれ、
芸事であれ、何かを身につける際の「究極のゴール」といえます。というのも、無意識レベルにいたれば、「楽に、早く、しかも正確に」実行できるようになるからです。たとえば、「試験本番」は極度の緊張状態にあります。この中にあって、無意識レベルにいたっていれば、
リラックスした状態で解答していくことができます。そのため、試験にといて、自分の実力を十分に発揮することができるのです。これには、意識レベルで行っている人はとうていかないません。
このレベルにいたるには、練習しかありません。練習で大切になってくるのは、「量」や「回数」です。そのため、「練習する」は「繰り返す」と言い換えることができます。知識にしろ、動作にしろ、何度も繰り返すうちに、内容や動きを頭と体が自然と覚えていきます。人は、繰り返しているうちに、無意識で実行できるようになるのです。では繰り返すとはどのくらいなのでしょういか。
それは、「人に」によっても「分野」によってんも異なるのですが、私の目安はだいたい「300回」。これくらい繰り返すと、だんだんと無意識でも行えるようになっていくはずです。中略
ただし、「300回」といっても、実際に300回問題を解いたり、暗記を繰り返したりするわけではありません。
「覚える」「わかる」「なれる」の3つを進めていく中で、自然に回数を重ねることができます。また、
知識は一つひとつ独立しているわけではないため、別の項目を勉強しているときに、周辺情報として登場すれば、そこでまた1回繰り返すことができます。そうした積み重ねによってトータルでカウントすると、だいだい300回くらい
にはなっているというわけです。先ほど、私は気に入った本は1000回以上読むと述べましたが、これもそのつど、じっくりとよんでいるわけではなく、パラパラと目を通すだけです。読んでいて、ゆっくりと読みたい箇所があれば、ゆっくり読みます。また、読んで、いる最中にアイデアがポッとでてくれれば、そのときは本の内容からはなれ、アイディアに注意を移します。
人生の状況は日々刻々と変化していくので、同じ本であっても、時間を変えて、読むことで吸収できる内容が変わっていきます。そのため、ときどき、「今の自分の人生に具体的に適用できることは?」と
探しながら、よんでいくこともします。パラパラ読んだり、じっくり読んだり、「注意力を変えながら、読む」という感じです。
このようにさまざまな読み方を繰り返していき、きがつけば、1000回以上読んでいたというわけです。
読書にしろ、勉強にしろ、おもしろいことに、回を重ねるにしたがって、なれていき、読むスピードや解くスピードがアップしていきます。その結果、繰り返しのカウントが加速的に早くなり、あとちうまに300回くらいかるくこなせるにようになっているはずです。そんなに深く考えずに気楽に繰り返していってください。
まずはなんでもいいので1冊からはじめてみましょう。
300回は思いもよらなかったよ。
でも、経験を得るということを、今の仕事でしていることで、ようやくこういう「教訓」の重みが
体に伝わってくるようになった。
受験に挑んでいくって、こういうことなんだよなって思う。
たしかに、低いハードルでいいから、なにか、300回やってみたくなります。
本で、それくらい読んでみたいテキストに、自分はいままで、出会ったことがあったかな。
うーむ。ちょっと怪しいな。
筆者はのべにして1000人以上の生徒の学習指導に、1対1でかかわってきたという経験があるといっている。
私は個人的に、これは事実なんだろうと思っている。
問題を解くスピードの重要性というものを、無視して受験の指導にあたっている人はいないと
思う。
私も、ここまで、きれいな言語化ができていなかったけど、「時間」を計るということには「それなり」の
「尊重」はしていた。
でも、こういう記述を読解していると、やはり「それなり」でしかなかったのだなと思う。
経験的に、学習塾の実力テストで、常にトップクラスにランクしている生徒さんの解答時間は、おそろしく
速いらしい。
なぜか、そういうことができるという生徒さんは確かにいるだろうけれど、根源的には、やはり
「繰り返し」による「無意識化」が完成していたのだろうなって、思う。
私は、生徒に、「この課題をやるとき、時間は気にしなくていいですか?」と聞かれることがある。
「とにかく、消化してしまえばいいや」と考えてしまって、
「今回はいいよ」と流してしまうことがある。
こういうことは、よくない。
と改めて、この記述を読んでいて反省する。
そして、この300回繰り返し練習論から、一つの実践的な考察が導かれるように思えます。
それは、学習塾の算数の指導、数学の指導の有効性です。
この「300回繰り返しメソッド」ができるような保障が、学習塾の現在のカリキュラムでは成立していないという
ことです。
「300回繰り返しメソッド」は、学習する内容を、すべて自分でコントロールすることができる環境が
保障されていないと、とてもできるものではない。
学習塾が毎週出してくる課題を消化するだけで、アップアップしてしまい、「300回繰り返しメソッド」など、
遠く及ばないという状態の生徒を私は何人も見てきた。
そして、私はそのとき、筆者のこういう問題意識をもっていなかった。
環境に流されていたなと思う。
そして、この実践的な考察から一つの「希望」のようなものを見出いだすことができるように思う。
組織的な学習塾の指導に対して、ゲリラ的な指導がシステマティックに勝つことが、個別指導ではできる。
学習塾は、課題を膨大に出すことで、「量」と「繰り返し」を担保しようとしている。
そうではなくて、学習する量、「試験に関する全情報」をしっかりと限定して、「300回メソッド」を
実行に移す。
こうすることで、課題が膨大に出されることで起こる「消化不良」が起こらないようにすることができる。
復習への執着は、そこそこでした。
この本の筆者は
「2回目の復習は、1回目より早い」
「最中の復習 直後の復習 毎日復習」
という「格言」もつくっている。
よくよく考えてみたら、ここにも独創性などかけらもないわけですが、実際に目の前にいる生徒さんに
たいしての訴求がとてもよいように思います。
本書113ページ
受験数学の一般的解法
問題状況の把握 (具体例・視覚化・対称性) 方針は目標ズバリ 直接無理なら評価する。ある未知数aを求めたいときには、直接求めずとも、未知数aが満たす式を作り出すのがよい。
答えだけ出す→答えへの見当
論理構造の解析 取り出し一意性 同値性
きついところから押さえ込む ピチピチはねる
しぼられたら元に戻す。しぼったところは考えない
何を変数にするかが、大問題場合分け その1 その2 その3があるとき、
その1が難しければ、その2に取り掛かる。
その1 その2が難しければ、その3から取り掛かる。
とにかく立ち止まるな。目標のすり替え (同値変形)
解法の数え上げ トライ 発想を書き出す。
解けることの確認
計算(莫大な計算量は計算ミスor解法ミス
答案 座標軸には意味をもたせる。
検算必ず解ける
無理やり解け
困難は因数分解
確実な解法を用いよ(点数速度)計算は分割したほうがラク
代入はできるだけ最後に
代入では満たす式を大切にする。数学では余分な労働はしない→対称性と周期性は意地でも利用
相似と漸化式 (差の関数)→共有点→因数分解
暗算によるミスを疑え。
本書115ページ
たとえば、数学であれば、解けると思って解き始めて5分みても解法が思いつかなければ、いさぎよく
次の問題にいきましょう。
証明問題は1行ごとに見直す。
数学の証明問題の場合、実力にある程度自信がある人は、最期までいったあとに最初から見直すのではなく、
「1行やったら見直す」を繰り返していったほうが速くなります。
これは、全部書いてから、見直して、途中に間違いを発見した場合、そこから先をすべて書き直す必要が
出てくることがあるからです。
1行ずつ見直すならば、その1行を修正するだけですみます。また、途中でまちがえているのに、それに気づかずに
どんどん証明を進めてしまった場合、実際の問題よりもむずかしい問題を解いていることがあります。
これは相当な時間のロスになります。「あれ、おかしいな」と思ったら、解答のはじめまでもどって見直します。それでもおかしい感覚があれば、問題文にもどって、問題文から見直しましょう。
証明問題に限らず、「計算」でも似たようなことはあります。
そばで見ている人間は、こういうことに神経を尖らせる必要もありますな。
最近、できていないですよ、これ。
後で気がついて、時間のロスに気がつく。
本書190ページ
単純な繰り返しの人生などない。
たとえば、私はこうして大学受験の勉強を押しています。つまり、高校範囲をぐるぐる繰り返して、勉強し、
教えていることになります。これは一見、進んでいないように見えます。
実際、生徒がどんどん新しい範囲を勉強してゆくのを見守っていると、私自身「私は進歩していないのでは
ないか・・・」そう思ったことがありました。
「自分は何をしているのだろう」と。しかし、「いま、自分の目の前にはこれがあるのだから」と、気持ちを整えなおして、進めているうちに、
新しい世界が見えてきて、使命感も見えるようになってきました。いま、こうして本を書いているのも
その成果だと思います。
だから、「繰り返しには、無限の価値がある」と思います。
餅つきでも、杵は繰り返しの動作を続けますが、もちは練られて、変わってゆきます。同じように見えても、そこには進化があるのです。
学生をやっているときは、どんどん学年があがるとか、学校そのものが変わるとか。
自分で積極的な行動をあまりしなくても、周囲がかわっていくということがあります。
でも、勤め人になると、バンバン転職する人生などを選ばないかぎり、
一つの場所に、ずっといて、同じことをしているような気持ちになります。
これは、人によっては、結構キツイ。
ダメージになります。
なんなんだろう。きっと自分の中の何かが、侵害されているようなそんな気持ちになる。
でも、ある程度、そういう「キツサ」を受け入れるということはどこかでしないといけないと。
そういうときは、トコトン突き詰めますと、「考え」をかえるということになります。
同じ場所、ずっと、そこにいるということについての「見方」をかえることで、今の自分をなんとか
肯定する。
「繰り返しには、無限の価値がある」
繰り返しの演習が大事になりますということは、色々な本に書かれている。
でも、ちょっとの違いで、言葉として響かない。
でも、どうもこの本には、違う力があるのかもしれない。
ずっと同じことを繰り返しているときに、シンドイと思うのは、「他に、なにかあるのではないか」
という考えが頭をよぎるからではないかな。
世の中が、大きな遊園地のようにみえて、一つのアトラクションにだけずっといるのが
絶えられないというか、そんな感覚。
「錯覚」なのだと思います。
でも、最近、私が経験の中で思うのは、「遊園地」全体のたった一つのアトラクションにずっと乗っている
中で、そのアトラクションが、他のアトラクションとどうやってつながっているのかが、見えることが
たまにあるということです。(仕掛けが一緒だったり。開発の設計に共通点があったり。沿革に関係があったり。)
思ってもいないつながりがあったりします。
地図を見る限り、端っこと端っこにあるようなアトラクションが、実はものすごく深いところで
関係があるとか。そんなことを実感することがあるのだと。
そして、そんなことを見つけることができたとき、
ただ、自分がいるアトラクションのずっと先にある「別物」の中にいたいとか、そのそばにいたいとか
思っているときよりも、「地図」や「テレビ」で見ていた別のアトラクションの本質がすこし
見えるようなそんな気になります。
だったら、一つのアトラクションに乗り続けることを通じて、広い広い地図の、目に見えない「全体」が
ようやく見えてくるようなそんな経験を、得ようとまっていたほうが、長い目でみたらいいのではないかなとか。
そんな心境になることがあります。