大学の先生という「キャリア」について
志学数学―研究の諸段階・発表の工夫 (シュプリンガー数学クラブ)
- 作者: 伊原康隆
- 出版社/メーカー: シュプリンガーフェアラーク東京
- 発売日: 2005/04/01
- メディア: 単行本
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都立日比谷高校を経て、1961年、東京大学理学部卒業。1963年、同大学院修士課程修了。理学博士。東大教授を経て、京都大学数理解析研究所教授、2002年退官。ICM (kyoto,1990)ではplenary speaker、ICM (Beijing,2002)ではフィールズ賞選考委員。現在は、中央大学21世紀COE教授、東大名誉教授、京大名誉教授。
専門は整数論で多くの業績をあげている。
ものごっつい経歴。いやこういうのにだまされてはいけない
という部分もあると思うけど。
めっちゃ短い。簡単に読めます。でもものすごく密度が濃いと
思いますよ。
追記
アメリカの大学で統計の先生をやっている人の
BlogからこんなおもしろいEntryがあります。
数学者とグローバル化 - Willyの脳内日記
ソビエト連邦が崩壊して真っ先に起こったことは、
旧共産圏から大量の数学者が流出したことだった。
もちろん、他のサイエンスでもエンジニアリングでも
同様の人材流出は相当程度あったと思うが、
数学分野はインパクトの大きさと速さに関して
最大の影響を受けた一つではないかと思う。
アメリカの数学者の雇用環境が外国人に奪われて
悪化したのはもう20年近くも前の事だ。
これは、製造業の仕事を中国に奪われたり、
サービス業の仕事をインドに奪われ始めるよりも
ずっと昔の事である。
これにはいくつかの理由があるだろう。
追記 その2Adachi Page
研究ができるようになると強い喜びがあり、人生が豊かになります。私のやり方で得られる喜びは瞬間的なインスピレーション型の喜びとは違い、認識が段々深まっていく継続的な情操型の喜びです。それなら正直な人(実感でものを言う人)ならアホでも意志さえ持っていれば得ることが可能であると信じています。形式的なことは大体述べましたが、いいノートをつける方法や技術、そして心構えなどは、人生に対するそれに大いに関係します。それについてはカード800枚以上に書きためましたので、おいおい述べていきます。
読者としては、一に、現役の(特に若手)研究者の方々と数学関連分野の学生諸君を想定しますが、大学生、高校生で数学に強い興味をもっておられる諸君にも、数学者の「考え方」や「育ち方」をもっと深く知っていただいて勉強の心構えや将来への判断材料にしていただければと。
僕が高校生をやっていたとき、数学の先生のこんな話が
印象に残っていた。
「素数がどうやって分布しているのかがわかったら、
それだけで大学の先生になることできると思いますよ。
一生、それで食っていけますわ。」
結局、数学がどうしても好きになれないで、文系を
選択したのですが、この会話は記憶に残っています。
「食っていく」
そういえば、「食える数学」という本が売れているようです。
「働く」という言葉にまとわりつくイメージというものが
あるように思います。
いま、試しに「働く」「仕事」という言葉を検索しておりました。なにか、おもしろいフレーズがそれで見つかればいいなと思ったのですが、どうもそうはいかない。
a : to fashion or create a useful or desired product by expending labor or exertion on
労力をさくことによって、有益または望まれている商品を生み出すこと。
これがウェブスターの辞書の定義のようです。
建物を建てる。
人を治療する。
学校で何かを教える。
本を書く。
プログラマー。
こういった職業になると、Productの中身がわかりやすいのかなと思います。
Productが目に見える、わかりやすいもので、使ったことがあるものであれば、それを生み出すための作業の有用性も理解しやすいものになります。
しかし、このProductが目に見えにくいものだと、当然、
そのProductを生み出すためのLaborやExertionを割いている
人たちの存在や、その人たちに求められている能力の有用性というものもわかりにくくなります。
さらに、悪いことに、このProductを生み出している当のご本人が、自分たちがやっていることが、ほかのWorkとは違うということまで主張し出すと、もっと話がわかりにくくなります。
私は数学者という職業の人には、そういう「わかりにくさ」のオーラが漂っているように
思います。この本を一通り、通読するまでやはり霧がかかっていたように思います。
そのもやもやをはらすつもりで、以前、こんなエントリーを書いてみたことがありました。
年明けの数学ネタ 「職探しをする上でのスキルとして」 - book-loverの日記
筆者が、数学の研究者としての「キャリア」をたどってきた
プロセスを以下のように「明晰」で「わかりやすい」形に
まとめています。ようするに、「実質的」にはこういうプロセスを忠実に踏んでいけばいいのだと。つきつめると、「大学の先生」という肩書き」があるかどうかは、二の次。
第1段階 高等数学に興味をもつ
第2段階 本格的な書物を考えながら読む
第3段階 問題をつくって解いてみる
第4段階 さらに見聞を広める
第5段階 本格的な研究生活へ
この本ではこの5つの段階を筆者がどうやって登っていったのか。
いや、行ったり来たりしていたのかということがとてもわかりやすく書かれています。
さすが数学の先生なので、書かれたかが磨き抜かれているように思います。
この世の中で「数学者」といわれている人たちがたどってきた足取りを「数学者らしく」
「見事に定式化」したような表現になっているのに、ちっとも抽象的でわかりにくい
ということにはなっていない。これはとても難しい芸当なのではないかなと。
好きこそものの上手なれ - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
私は大学という空間も一つの職場なのだという意識が希薄でした。
どうしてこういう場所があるのだろうということすらわかっていなかったのではないかと
思います。合理的に自分の将来について考えるには自分はあまりにも幼かった。
大学の化学研究室に入って同級生たちが熱心に実験に取り組むのを見て、私とは熱意がまったく違うと痛感させられました。私の場合、知りたいから追究しようという気持ちになるほど、化学は好きではなかったのです。自由時間には、よく思想系の本を読んでいました。自然科学系ではなく、社会科学系の世の中のなりたち、みたいなものに興味があって、一冊本を読むと、これをもっと知るには、次はこれを読まなくては、という具合に、次々と課題が浮かんできたのです。
そのうち、卒業後の進路選択をせまられることになりました。公務員になるにしろ、教師になるにせよ、当たり前のことですが一生化学とは離れられないのです。これで、いいのだろうか、という気持ちがつきまとって、結局、大学4年の時にまったく就職試験を受けませんでした。時間稼ぎのために高校の非常勤講師として働きはじめてまもなく、ドイツに来ないかという誘いがあり、学生になってあらたに社会科学系の勉強をすることにしました。ドイツに行くにあたっては、絶対に大学を卒業し、学んだことを職業にするとだけ決めていました。ドイツの大学は、入るのは語学試験だけで簡単でしたが、卒業は日本ほど簡単ではないので、それなりの努力を求められました。それでも将来を憂うこともなく楽観的な気分で日々を送れたのは、今と違って、「なんとかなる」という気持ちをもてる時代だったからでしょう。
大学でどんなことを学ぶのかということは、職場を「大学」に定めるのならば理系だろうが、
人文系だろうが、あまり変わらないのかもしれないと、この西洋史の先生のエッセイと
この数学の先生のエッセイを読んでいて思います。
本書で紹介されている「若者向き」の本。
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目覚めと数学覚め
「さて、これから数学をやろう」
というのではまだまだです。「佐藤幹夫」目が覚めて
「気がついたらもう数学を考えていた」
くらいでなくては。
数学の論文は、構想、下準備、組織、草稿書きから最終稿の完成にいたるまで、それぞれの段階で
第1段階 頭で十分考える
第2段階 書き下す
第3段階 書かれたものを注意ふかく読み、再び(1)へ
という作業を何度か繰り返すことによって仕上がってゆきます。
私が、先生がこういった箇所について書かれた部分に目がいったのは
こういう「書く方法論」というものについてのこだわりは、ブログの運営をしている
人にも有用なのだろうということです。
すでに、私のブログの手抜きの部分が、ちらほらとばれてしまうような厳しいことが
色々と書かれています。
たとえば、ちょっとした手間がかかるので、実はこの引用もあまり正確ではなかったりするのです。人文系の書き方としては、すでにマナーから外れています。
「論文を書く意義」
これは自分のためでも、学会のためでもあるわけです。
(1)自分のため。
一つの仕事の区切り 論文を書くことで
結果をなるべく一般的なものにする。
証明の方法をなるべくすっきりさせる。
わかったこととわからなかったことの区別をはっきりさせる。優先権の獲得
業績として認めてもらう
思わぬ友人を作るため。(2)数学界のため
「論文は読んでいただくつもりで、うやうやしい気持ちで。」
(志村 五郎)
書かれた内容、式などが確かに正しいか?
説明に過不足はないか?
文章の流れは自然に連なっているか?
大事なのは、やはり情報を自分で発信してみるというステップを踏んでいくという
ことなのだろうと思います。
その試行錯誤の中で自分がやりたいことが何かということをようやく考えることができるように
なるのではないかな。
なんのために発信するのかなと。
それを読んでほしいのは誰なのかなと。
あまりにも基本的なところなのですが、いまだにこのステップが抜けているために
あまり有益ではない時間の過ごし方をしている人が私も含めて、結構多いのではないかなとか。
そんなことも考えたりします。
数年前のことになりますが、以前、東京大学で数学科の3年生に代数学の講義をしていたとき、期末試験の問題全体へのヒントとして
「手折らずに、観ればやさしい梅の花」
と書いたことがありました。(3月でした。)
その「こころ」は、あわてて計算を始めずによく題意を理解すれば、問題の背景にある構造が見えてやさしく解けますよ、というつもりでした。実際、やさしく解いてくれた学生も少数ながらいました(うち二人は現在理数研で助手をしているすでに第一線の研究者です。)
しかし、もっと印象に残ったのは、ほぼ白紙の答案に書かれた次の返句です。
「やさしさに手動きもせず梅の花」