フランス現代文学で「多読」「うたかたの日々」

L Ecume Des Jours - Edition Anniversaire (Ldp Litterature)

L Ecume Des Jours - Edition Anniversaire (Ldp Litterature)

読了。
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/01/006458.html
YouTubeをテレビ代わりにして色々な動画を視聴してきた。
家庭教師・塾講師という立場上、やはり教育的観点というものも気になって
「これは!」というコンテンツを探すことにする。
ぱっと思い出すだけでも、クラシックバレーの公演や、有名なミュージカルの
上演などなど、今までだったらビデオレンタルなどをするか、会場に
赴いて、チケットを購入しないと鑑賞できなかったのではないかという作品も
多くある。そういったものがどういうものか取り上げるだけでも、かなり
大きな作業になりそうなので、ここではあまり踏み込まない。
立場上、色々な生徒さんを教える。
色々な科目も教える。どうしても「何でも屋」という立場になる。
最終学歴が文系であるということもあり、自分の中では
一番得意なのは語学なのかなと。そういう自覚もあるので、
この先も、外国語を学習していく上での有効な方法論などを
模索していた。
そんな時に、遭遇したのがSEGという学習塾が主に推進役に
なっている「洋書の多読」というものに出会う。
仕組みは単純で、
「辞書引かない」
「面白くなかったらやめる。」
「興味のあるところだけ読む。」
という3つの原則を守りながら、どんどん自分の興味の赴くままに
洋書を読んでいけと。
そういう語学の学習論。
すでに、この方法論は英語教育の現場においてはかなり認知されているらしく。
受験進学教育に熱心な割とメジャーな中高一貫校にいる英語教師による普及活動も
進んでいる模様。
詳しくは調べていない。
だったら、英語で書かれているテキストに関連して「多読」のことを書いても今ひとつ、
インパクトにかける。
そうはいっても、やはり「なんちゃって英語教師」としてやはりそれなりの洋書購読の
経験も積みたかった。
ということもあり、このブログでもかなりの回数をつかって
トマス・ピンチョン」という英米文学の世界では大物として認知されている小説家の
作品を取り上げたりした。
性格的に自分は飽きっぽいんだなと思う。
このまま、他の英米系の作家の研究するをするか、ピンチョンの作品理解をさらに深めていくという
ほうがよかったのではないかとも思ったが。ちょっと休憩。
なぜ、休憩をしようと思ったのか。
自分は、英語に関しては、あまり不得意とか、挫折とかを感じたことがなかった。
だから、「英語の成績を維持する」という動機は働いても、
「英語の成績をのばさないと!」というプレッシャーは今ひとつない。もちろん、上には上が
たくさんいるので、やらないといけないのだけど。
こういう状態で、英語の多読だけをやっていても、
「洋書の多読」というものが、本当に外国語の習得、上達の秘訣として有効かどうかの実証は
できないのではないかと思った。
もともと得意だと思っていたものを、さわりやすいから、時間を使っていただけということにも
なりかねない。もちろん、まだまだ精進しないといけないことが山ほどあることは承知の上。
あくまで程度問題。
それより、自分にとって英語よりもっと、疎遠な外国語で、多読をすることで
その外国語が自分に身近になるかどうかを検証したほうがいいのではないかと。
そういうふうに考えた。
それと、自分にとって未知の外国語の「単語の記憶」の方法についての検証にも絡まる。
このブログでも英単語の記憶、12000語ラインを目指して、携帯電話の英単語アプリをひたすら
覚えていくということを記述したことがある。
あまり実証的なデータなどで示すことはできないけど、この作業は後々の文献購読にとても
有効だったと思う。
やはりペーパーバックを最初から最後まで読み通すのはしんどいけれど、それでも
なんとか、最後まで読み通す力がつくところまで来たのは、やはりある程度、自分の頭に
英単語のストックを入れたからだと思う。
この「英単語の記憶方法」の有効性が、他の外国語についても有効かどうかも検証してみたかった。
つまり、
「多読」「単語の記憶」のメソッドというものを、英語以外の外国語で試した方が、
かえって、このメソッドの有効性の検証に有益なデータを提供するのではないかと思った。

そこで、学生時代に少しだけ触れたことがあるフランス語で「多読」をしてみることにした。
そして、あえて、「Graded Readers」としてレベル高めのものに挑戦することで
単語をどんどん覚えて、本格的な洋書にアタックしていくプレッシャーを自分に与えてみようと思った。
ここまで、書いていて、また改めて、自分が洋書の購読について考えていたことがある程度まとまる。
SEGなどが推進する英語の多読の「システム」はとてもよく整理整頓されている。
英単語の語彙数がレベル別に分かれているし、本格的なペーパーバックを読みたい人にも
「読書案内」のジャンルの本がどんどん出ている。
でも、「人文系の研究レベルでよく参照されるような本」に関してはまだまだ案内がされていない
のではないかなとも思った。これは当然といえば当然で、英語が苦手な人が、英語に対するアレルギーを
取るために多読という方法を取るので、あまり内容が濃密な本格的な文学作品などは、真っ先に
「読むべきリスト」から削除されるベキなのだ。

この問題は違う観点からも見ることができる。
社会学、文学、経済学などの研究者が、翻訳などを通じて、日本の読者に紹介してきた「名著」といわれる
書籍を、「こういうテキストだって多読の対象になる!」という考え方を提示することで
今まで、専門的な人にしか縁のなかった本が、「語学学習用」というしっかりと市場のあるたくさんの
人に紹介することが可能になる。
すこし先走ることになるけれど。
映画と、映画の原作になる原作の関係。
映画が有名になると、その原作も書店で売り上げを伸ばすみたいなイメージ。
「専門ジャンル」に分類されそうなものでも、「多読のGraded Reader」というレッテルを
つけることで、多くの読者に迎えられる流通経路を見つけるみたいなイメージ。(2400文字)

トマスピンチョンのテキストをこのブログで紹介していった時にもこういう意識はどこかにあった。
彼は長い作品を書く。
「重力の虹」「against the day」「Inherent Vice」「Mason & Dixon]
「Vineland][Cryinglot 49][Bleeding Edge] 「V」
正確にカウントしていないけれど、彼の作品にがっぷり四つに組むと、実は100万語に到達します。
だとすれば、ピンチョンだって、「多読テキスト」として読書の対象にすることが可能になる。
「教材」としての流通経路を見いだすことができる。
そして彼の作品世界に、今まで縁遠かった多くの日本人読者が見いだせたら、それは
また日本の創作文化になにがしかの影響を与えることになる「かも」しれない。

外国語を学ぶ意義ということにも、新しい光が当たるかもしれない。
いや、光が当たるという言い方も適当ではないかもしれない。
特に、人文系の研究者が営々とやってきた洋書購読という「作業」を
「学習」という観点で「見直す」「仕立て直す」そんなことができたらと。
ふと思った。

それは、日本で、色々分野で「文化史」的なプロセスがある場合に
「要するに、とある外国語ができる人が、日本にとあるテキストを紹介することで展開した」
ということに集約されるのかもしれないけど。
それを、簡単に自覚するというもの悪くないかもしれない。
少なくとも、洋書の多読のまねごとをやるまで私はそんなことを意識することもなかった。
「論文を書く為に、文献を読み込む」という作業自体も、その意味を見いだすことが出来なかった。
でも、外国語でテキストを読もうと思うと、やはり辞書を引くことから始まって、
その国の文化や歴史の調査と無縁でいられない。
でもその過程を通じて、試験の成績プラスαの何かを得ていくのだと思う。
そんなことを、フランス語の読書で、実験してみたかった。
ちょっと話はそれるけど、東大駒場キャンパスでイタリア文学の研究者の先生がいる。
その先生(たしか准教授)の特別講義が動画で公開されていたので
視聴してみた。
その研究者はどうもプロフィールをみると、10年近くイタリアに留学していたそうな。
専門はおそらくダンヌンツィオ。
という名前の国際的流行作家。
厳密な検証はまだないみたいだけど、おそらく、おそらく三島なんたらという
作家はこのイタリア人の作家としてのスタイルに強烈な影響をうけて
みずからの「文学活動」を営んでいた節がある。
哲学科の教授はあるときはハイデッガーを読み、ある時はカールマルクスを読んで、
著書にその研究成果をまとめる。

そんなことを考えていたときに、光文社という出版社が営んでいる「新訳古典の森」という
プロジェクトを知る。
どこかの、有名な文庫が並べそうなメジャーな海外の文学作品を、色々なジャンルの研究者、
専門的な翻訳のプロの人たちが「新訳」として送り出していく。
こういうシリーズで取り上げられるものを「多読テキスト」の対象として見てみたらいいのではないかと
思った。
そして、さらにタイミングがいいことに。
YouTubeという媒体によって、今までなら、「動画視聴」なんて考えられなかったコンテンツに
アクセス出来るようにもなった。
光文社はそこで、東京大学フランス文学研究者に、ボリスビアンという小説家の作品で、
翻訳を依頼した。
その作品の原書のタイトルはL'Écume des jours。

この動画を視聴するまでは、このボリスビアンという小説家の名前すら知らなかった。
「うたかたの日々」という小説の存在も初めて知った。
ここで、動画の中で話されていることを重複して書くこともしないと思う。
ちょうど、ピンチョンの読み込みをしている時に、脱線的な感じで視聴したんじゃないかと思う。
「重力の虹」という作品が、第2次世界大戦の最中から、直後のドイツベルリンなどを舞台していたのと
重なって、どうやらこの「うたかたの日々」は、ドイツ軍から解放されたばかりのパリという
雰囲気が強烈に残っている時に誕生した作品なのだと。
そんなことを確か、この動画に出演している野崎先生は話した。
このとき、
「外国語で小説を読むことが出来たら、外国語で物語に触れる力があったら。たとえそこにいったことが
なかったとしても、自分の日常生活からは想像も出来ない、違う世界に触れることができるのかなと。」
そんなことがなんとなく頭をよぎった。
たしか、野崎先生がこの動画でいっていたことにこんなこともあった。
フランス文学には、長い伝統がある。そして政府も、文学作品を尊重する姿勢をもっている。
政治的な力がどれくらいあるかはさておいて、フランス語というものが、自覚的にしっかりと
整備されて、フランス人に使われてきた。」
傑作といわれる作品が長い年月にわたって、生まれるようにきちんと環境整備をしてきたのが
フランスという国なのだと。
そんなことを確か、おっしゃっていたと思う。
それも私には新鮮な驚きを覚えた。
これは、聞きかじり。読みかじりだけど。
飛行機にのる機会があり。「機内誌」を読む。そこで、日本で長いこと陶芸の作品を発表することに
従事してきた人が、念願かなってパリで個展を開くことができることになったというエッセーを寄せていた。
ある程度、まとまった滞在になる。当然、地元の飲食店に立ち寄る。
どうやら、店主と話をしているとき、陶芸で生計を立てているということを言ったらしい。
その店主は「そうか。君は芸術家なんだね。そういう人からお金を取らない。」
といって飲食代をただにしてくれた上に、自分の個展にまで来て、ワインのお土産を置いていったと。
マークしていなかった小説家。
はじめて聞く小説のタイトル。
この動画では、ある程度、この「うたかたの日々」を知っていることが前提になっているのか、
それとも「紹介」という性格があるのかは、いまひとつ、わからないけど。
どうやら、裕福な青年が、一人の女性に出会い、恋愛のすえに結婚をするが、
相手が難病にかかり、自己破産までしたあげく、その伴侶にも死なれるという話だということは
わかった。
ただそれだけだったらお涙くださいで終わる訳だけど。
どうもそこがボリスビアンの真骨頂というか。SF的な不思議な小道具を色々と登場させて、
とても幻想的な雰囲気を作品世界に与えているのだとか。(4700)

この動画にも少しだけ登場するけど、おそらくこの作品に出てくる不思議な品物の
代表格。
ピアノカクテル。
旋律を奏でると、その旋律に応じて色々なアルコールや原材料が自動的に混合されて、
カクテルが調合されるピアノ。
私がこの作品を読もうと思ったきっかけの一つ。
よくもまあ、こんな奇想天外なものを思いついたな。
現在の科学技術で出来るかどうかの前に、ある程度、こういうartistの発想というものが
まず先攻して、大ヒットする商品には必要なのかなとか。そんなことも思った。
この後、時間を置いて、この作品「うたかたの日々」を読むことになるが。
不思議な機械は、このピアノに限らないで、色々と出てくる。
それだけでも延々と、色々なことがかけるくらい。作品の長さはそんなにないのだから、
それだけ、「うたかたの日々」の密度は濃いということ。

「うたかたの日々」の本筋には入らないで、延々と、どうして自分がこの本を読もうと
思ったのかというなりそめをやたらと書くということをやってしまった。

あらためて。
この作品の主人公はコランという青年。二十歳をちょい過ぎたくらい。
どういう由来かはわからないが、物語がスタートした直後は、働いて、生活の糧を
得る必要がないくらいに、十二分な財産をもっているという設定。
そして、ニコラという専属料理人も抱えて、優雅な独身貴族の生活を楽しんでいる。
作品が発表された当時に、一世を風靡していた哲学者サルトルをパロディにしたと
誰でもわかる「パルトル」という哲学者に傾倒しているシックという親友もいる。
コランには、クロエという恋人ができる。
シックにはアリスという「哲学の同志 兼 恋人」がいる。
何の現実感もない雰囲気で、作中の若者はパーティーを楽しみ、
恋愛を楽しみ、結婚する。
ところが、後半になると、クロエが、肺に睡蓮の花が咲き誇るという奇怪な
病におかされ、コランは彼女の看病のために、高額な医療費の負担を
余儀なくされ、ついには自らの蓄えもそこをつき、
自分の生気を養分ににして、武器の製造をする会社でのアルバイトや、
人に未来におこる不幸をアナウンスすることで、告げた本人からの八つ当たりに
さらされる仕事(個人的には某国営放送局の放送料の集金を思い出した。)
などをしないといけない状態に追いつめられていく。
シックとアリスのカップルにも悲劇はやってくる。
シック(工場勤務のエンジニア)は、コランからアリスとの結婚の準備金として多額の金銭の贈与を受けたのにも
関わらず、そのすべての金銭をパルトルに関連する骨董品の購入に費やしてしまう。
そんなシックに絶望したアリスは、パルトルを、シックが狂気に陥った元凶だとみなし、ついにパルトルを
殺害してしまう。そしてシックの行きつけだった骨董品のお店に放火して、自らはその中で灰となる。
シックは、税金の滞納が理由で官憲からの捜索差し押さえをうける。
その公務の執行を妨害したかどで銃殺される。
この「うたかたの日々」は、すでに色々なブログで紹介されているけど。
私個人としては、コランとクロエが話の中心であることは間違いないが、このアリスとシックというカップルの
たどった末路のほうが衝撃的だったように思います。
かつて、学生時代に哲学書といわれるものを読んでいたことがあったからかな。
サルトルのテキストは、「自由への道」という長い小説をこのブログで多読テキストとして紹介した
ことがあります。
コランは、クロエという恋人と契りを結び、彼女の破滅に巻き込まれるようにして生きていく。
シックは、アリスを顧みないで、パルトルにまつわる骨董品やテキストの収集に奔走する。
そしてどちらにも、暗い結末がまっている。
ニコラを狂言回しにして、このコランとシックの二人の物語の交差に印象を受ける。
などどということを書くと、なにやら、「文学部っぽく」なってしまうのでもう少し、
ライトな感じで。
先ほど、ピアノカクテルの紹介をしたが、本作品では、ニコラという専属料理人が主人であるコランに
用意する様々な料理が出てくる。これもまた秀逸。
今はGoogle検索の時代なので、出てくる料理や食材に関してもいくらでも調べることができる。
やはりグルメの国だなと思う。

多読のトレーニングとして、なるべく一定のペースを守ろうと心がけて、
「うたかたの日々」の原書に挑戦。
そんなに長い小説でもないので、1日10%の進度を守る形で読み進める。
辞書は「あまり」ひかない。というか、kindleの「辞書」だと言葉が出てこなかったりする。
やはり、プチロワイヤルのような本格的な辞書を手元に置いておくべきだったなと。

フランス語常用6000語

フランス語常用6000語

フランス語分類単語集

フランス語分類単語集

こういったいわゆる「単語集」で一定の時間を置いて、原書に挑戦するための基盤に
なる語彙のストックを増やしていった。
分類単語のほうは、前書きにもある通り、フランス語の中で、頻繁に登場する
語法などに習熟する必要のある単語は一切掲載されていない。だから名詞にかたよる。
だから、「常用6000」のほうを徹底的に理解暗記することが大事になる。
これをすると、かなり読み進めることができるようになる。
それでも、「うたかたの日々」をフランス語の原文で読み進めるのはきつい。
どう考えも、「常用」にも「分類」にも掲載されていないっぽい単語がこれでもかこれでもかと
登場する。
もともと、幻想的な雰囲気にあふれている作品なので
「こういう設定、こういう場面だったら、だいたいこんなことが」
みたいな常識というものが読解の時に働かない。
クロエが重病になったとき、コランが彼女のための薬を薬局で処方してもらうシーンがあったが、
その薬局で使用されている薬の製造マシンの描写などは、野崎訳を読まないと、その全貌を
原文で掴むことはできなかった。
コランが、医療費を稼ぐためにどういうアルバイトをしていたのかとか。
こんなのも、野崎訳を読んで、ようやく理解した。
フランス料理に対する造詣などもほとんどないので、食材などでちょっと込み入ったものが
出てくると、お手上げ。
「ああ、無情」の原書を読んでいくために辞書を引く作業でもこういうことが多かった。
携帯電話ではなくて、手紙でのやり取りとか。
移動手段が車ではなくて、「馬車」だから宿屋に馬の宿泊する場所があるとか。
戦争するのにも、ハイテクではなくて「白兵戦」だから、兵隊のユニフォームの細かい描写があるとか。
そうすると19世紀で消えた語彙などが、よく出てくるから、プチロワイヤルだと、少ししか
説明が掲載されていないとか。それでもあるだけ助かる。kindleの辞書になると、そもそも
「ないよ」という返答がかえってくる。
「多読」を経験していくことで、「辞書の偉大さ」というものにも目覚める。
よくぞまあ、これだけ色々な言葉が出てきているのにちゃんと、引いたら、必要な情報が
掲載されているってすごいと。素朴にそういうことを思う。そういえば辞書の編集に関わった人をモデルにした
映画とかあったな。
外国文学をまともに読みこなそうと思ったら、想像もしなかったような色々な素養がないと、
何の妨害もなしに、そのままダイレクトに筆者の想像した世界を鑑賞することは出来ないのだなと。
そんなことを痛感する。
同時に、学校で行う語学教育の枠内で読むものというのは、しっかり語彙が統制されていて、
ある意味「本物感」がないのだなと。
本格的に、評価の定まった原書を読もうとすると、際限のない語彙の調査が必要なんだなと。
それが、翻訳に関わる人たちの気苦労なんだと。3000

とここまで書いたら、原書と訳書に対する私の「書評」みたいなものはもう出来上がったようなもの
なのかなと。
正直、英語で読んだものを日本語で読み返したいとはあまり思わない。
二度手間になるよなと。
でも今回はテキストに関してはそうはいかなかった。
野崎訳を参照しないと、ある程度、内容に自信をもってブログを書くということはとても出来なかったと思う。
あとがきなどを読むと、いま最新のビアンの作品を集めた「全集」を参照されて、
しっかりと、それを「訳注」(「うたかたの日々」の文庫の後ろにかたまって掲載されている作品に出てくるものへの注記事項のあつまり。)
として反映されたとのこと。
これは貴重。原書でtryという人も、こんなものは原書にはないですから、それだけでも訳書を買う価値が
あるって感じです。
この作品では、ビアンが、熱烈に好きだったjazzにまつわる情報もたくさん掲載されている。
そもそもクロエというコランの恋人の名前も、デゥークエリントンというjazzの名手による楽曲からとられたもの。

なんとなく、話がうろうろしてしまうなと思うが。
この「うたかたの日々」を下敷きにした映画「the mood indigo」というものもdvdで鑑賞しました。
大体、作品世界をうまいこと再現しているのではないかなと思いました。
監督は、get luckyのチームのpvなどを担当したとのこと。one more timeだったかな。
それと、ビョーク。human behavior
監督のミシェルゴンドリーは映画に華やかさを添えるためにこのjazz
を徹底的に利用しています。

この映画についても下記の対談で、翻訳者とプロのjazz演奏家が色々な話題に
触れています。

この対談も、作品に触れる前に聴いていて、なんとなく面白いと思った。
だから読んでみよ。映画も見てみようと思えた傑作の動画。おすすめです。
場所はおそらく東京大学本郷キャンパスのどこか。

うたかたの日々

うたかたの日々

野崎先生が登場する動画でも言及されている岡崎京子という漫画家による
「翻案」。
古本をamazonで購入して読んでみました。
帯のほうに、

「私の夢はオカザキ版「うたかの日々」を読んでパリジェンヌが涙を流すことよ。」

というキャッチが入っていました。
最近は「レミゼラブル」の漫画化とかも進行していて、外国文学のポピュラーなやつを
漫画にして市場に出すということもあまりめずらしいことではなくなっているようですが。
わりかし、この時期にこういう願望をもって作品を世に出す人というのは少数はだったのかなとか。
色々と突っ込みどころはあります。
そもそも、この作品は日本でだけ生き残って売れているけど、肝心の本国では見向きもされていないとか。
それが、オカザキ漫画で復活したりするのかとか。
閑話休題
漫画のクオリティーはとってもいいのではないかと思いました。
原書の中身確認して、翻訳も読んでからの購読なので、3週目の「うたかたの日々」。
さすが。漫画。あっというまに読めます。原作だってそんなに長い本ではありませんから。
多分、30分くらいあったら充分にいけるのではないかと思います。

とはいえ、実際にこの「うたかたの日々」がパリで出版されて、筆者の死後、フランスの5月革命では
運動に参加した学生がよく読んでいたということもききます。
もちろん、時代的制約といのはあるのであります。
最近は、男女雇用機会均等法の時代でございますから。
男性よりばりばりと稼いでいる女性だってわんさかいるわけです。
そういう時代からすると、クロエみたいな女性がヒロインになって、無力に死んでいくというストーリーというのは
ある種の「偏見」があるのではないかとか。
だとしたら、現代版で修正するとして、どういう方法があるのかとかも考えたりすると面白い。
話はそれますが。
JR大阪の駅で、とあるイタリア風のカフェというものが出店されました。
私はこの駅の大改装工事が会ったときからこの店舗をみているので知っていますが。
私の知る限り、あまり客足がいいとはいえなかった。
ところが、今年になって、ロングセラー的に子供に大人気の「名探偵コナン」の知的財産権
活用する事業提携(?)で、いきなりそのカフェでサンドイッチやコーヒーを頼むのに行列が
出来るようになっていた。
なんてことはない。店の看板に「コナンのカフェ」と書いてあり。
名探偵コナン」のいくつもあるストーリーの中で、実際に登場したことのある「料理」が
そのカフェで注文できるという仕掛けが出来ただけ。もちろん、それだけでなく、
いわゆる「オリジナルグッズ」といいますか。キーホルダーとか。下敷きとか。
マグカップとか。アニメのキャラクターがあしらってあるやつ。昔からありました。
名古屋の万博でトトロの家つくったら、行列できたのと同じ論理。
「うたかたの日々」は、物語の結末があまりにも悲劇的なので「コナン」「トトロ」を目指すのは
難しいかもしれないけど。
「コランの家」は充分、アトラクションになりそうだし。
「ニコラ」という天才料理人が腕によりをかけた料理が「フランス」のブランドを背負って登場するし。
そういう意味で、出し方を工夫したら、いくらでも化けてくれそうな作品だなと。
そんなことも思いましたが。もう一般の人にはハードル高めになったかな。(1100)

wikipedia

事件の発端は1966年に起こったストラスブール大学の学生運動で、教授独占の位階体制に対する民主化要求からはじまる。ナンテールに波及し、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙に反対する学生運動に発展、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。アナーキストのダニエル・コーン=ベンディットと統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロツキストのアラン・クリヴィンネが指導し、フランス全体の労働者も同趣旨から民主化に賛同し、運動は拡大した。5月2日から3日にかけて、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模な学生デモがおこなわれた。5月21日にはベトナム戦争プラハの春事件等の国境を越えた国家権力の抑圧に反対し、自由と平等と自治を掲げた約1千万人の労働者・学生がパリでゼネストを行った。これに対して、機動隊がこの参加者を殴打したため、抗議した民衆によって工場はストライキに突入し、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。「中央委員会」は間接的に援助、各大学もストライキに突入し、このゼネスト第二次世界大戦以来の政府の危機をもたらした。
「モスクワの長女」ともされたスターリン主義的なフランス共産党は、影響下にある労組ナショナルセンターであるCGT(労働総同盟)を通じて労働者のストライキを組織したが、ベンディットらの急進的な学生運動を一貫して否定し、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠を積極的に推し進めるアナーキストトロツキストたちを「挑発者」として、激しく非難した。
シャルル・ド・ゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動くと共に、国民議会を解散し、総選挙を行って圧勝し、事態の解決をみた。労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。また、五月革命は政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「自由恋愛」に代表されるような「古い価値観を打破する20世紀のルネッサンス運動」という意識を持って参加するものも多かった。
フランスの五月革命は西ドイツ、日本、イタリアなどの先進国の学生たちに大きな衝撃を与え、学生運動の激化をもたらしていった。

学生がイニシアチブを取る、政治的な運動というものに建設的な価値を認めるかどうかとなると。
いかんせん、「彼らって無力なんじゃないか?」という「感覚」が私にはあるので、なんともいえないです。
そういえば、「うたかたの日々」でもスケート場の場面でなぜか、その当時のフランスの共産党の有力政治家の名前が
さりげなく登場するという場面もあったやに思います。
巻末の注釈をみると「本筋にはなんの関係もない」みたいなことが書かれていました。
野崎先生の動画によると、この文学作品で論文を執筆するとなると、
「クロエの肺の近くで咲き誇る睡蓮の花にはどういう暗喩なのか?」
ということに説得力のある議論が展開できるといいのだと。
そういうことでした。典型的なものでは「妊娠」の暗喩なのだと。
そういう意見もある。アート系の女性は、「妊娠」による体型の変化などを蛇蝎のごとく嫌うという人も
いたのだとか。「ブリジットバルドー」という女優の名前も出てきます。
「結婚生活」というものはろくなものではないというメッセージが謎掛けではいっているとか。
菊池氏(jazz)によると、「jazzの楽曲で睡蓮がでてくるよ。」みたいな結論だったので、あまりそういう詮索には
意味がないのではないかとか。そんな話も聞こえます。
僕が、この作品で気になったのは。
そもそもこの本を読んでみようと思ったきっかけは、
「コランは働くことが嫌い」
という内容に関することでした。
野崎先生が、「翻訳をしていて、一番違和感を感じたのは、「労働」に対する徹底的な嫌悪です。」
というふうに、いっていた。
どうして、こんなに嫌いなのかよくわからないと。
たしかにこの「価値観」は僕もきいていて、ちょっと不思議だと思った。
外国ではよくある「価値観」だときいてはいたけど。
あまり、ここで細かく、追求しようとは思わないけど。
少なくとも、私が、原書と翻訳を読んだ限り、どうも
「コランは働くことが大嫌い」という受け取り方は誤解が混じるような気がしないでもないです。
「論証は?」といわれると、こっちも困りますが。
なにより、コランは全財産がなくなってから、どんな人間だってやりたがらないような労働に
従事しているというのがすこし気になるところ。
それと、薬局で、動物の消化機能を、製剤のノウハウに応用する機械を目の当たりにして
目を輝かしたり。
カクテルピアノを発明して、結果的にそれを「売却」することに成功していたり。
ただ単に、コランは労働は嫌いというまとめ方をするには、コランの労働への関わり方は
あまりに多面的過ぎるように思います。
実際の労働事件を裁判で戦ったことのある弁護士に弟子入りした人の話をきいたことがある。
いや、広告代理店で、夜も寝ないで働いていたから、朝食をとっているとき、箸を動かしている
のに、うつらうつらしている人がいたと。
そしてあげくの果てに自殺してしまったと。
こういう人は、「労働が大好き」だったかもしれないけど。
「労働への関わり方」が果たして、まともだったといえるのかという問題があります。
広告代理店に、監督責任の不行き届きがあったかどうかとか、そういう問題とは別。
突き詰めたら、働いている本人に不幸をもたらすような「労働讃歌」だってあまり
健全とはいえないわけで。
コランというキャラクターは、この自殺してしまった代理店マンが
10時間かけてやっていたことを1時間でできるようにすることには強い知的関心を
もつセンスを感じるのです。
実際、googleという会社が広告の業界に与えたインパクトは、
コランがカクテルピアノを世に送り出すのにだぶってみえます。
動物の消化機能の製薬への応用なんかもそう。
そういう応用の実現が出来なかったら、人力でコストを無駄にかけて
やらないといけない作業を、「自動化」(ファナックとか。)
するみたいなところには、コランは動物的な本能を見せていると思う。
私の記憶違いかもしれないけど、この部分がオカザキ版で抜けていた。
ここが抜けてしまうと、「うたかたの日々」は一面的な恋愛小説になる。
私には、コランがなんらかの新しい「仕事のあり方」というものを提示する
イノベーターとしての側面をもっているような気がしてなりません。
そして、そのイノベーターとしての側面を彼が発揮させたきっかけが、
クロエとの出会いだったということが、この作品を時を超えた傑作にしているように思えるのです。(12000)