教えすぎ
微妙に立場が違っても、目に止まる意見というものはある。
黙っていて、ときどき笑ったり、息をついたり、どよめいたりするだけである。あとは、まなざしや座り方や腕の組み方や鉛筆の持ち方のような非言語的なシグナルで話している人間に対して「同意する」とか「よくわからなかったので、もっと詳しく」とか「それはどうかな」とか、さまざまなメッセージを発信する。
この非言語的なシグナルの送受信は教室で子どもたちと向かい合うときに必須の能力である。
非言語的なシグナルにも「語彙」があり「文法」がある。
実践の場では、こればっかりだから、いやになることがある。
子どもはそれを「非言語的シグナル送受信の熟練者」から習得する。だから、親や教師が「非言語的シグナル送受信の熟練者」であれば、子どもたちはすみやかにそれに習熟する。
互いにわずかなサインで意思疎通ができるようになれば、大声を出したり、走り回ったりする必要はない。
問題行動を起こす子どもも親たちはかなりの確度で「非言語的コミュニケーション」能力が低いと考えられる。
表情や声のピッチや語調やわずかな動作の変化をシグナルに使って複雑なメッセージを送受信する術を家庭で学習してこなかった子どもは「シグナルが読めない」。
どうなんだろう。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
問題行動というのはその集団の文脈になじまない行動のことだが、それは集団の文脈を熟知した上で、それに対して反対したり、批評的に構えたりしてなされているわけではない。私が知る限りでは、問題行動は「集団が採用している文脈が読めない」ことから派生する。
教場における問題の多くは「非言語的なシグナルを感知する力」の不足が原因で発生する。
私はそう考えている。
いや、熟知した上で、めちゃめちゃをやる生徒もいる。
確信犯で、暴れる子はいる。
そんな子が、対峙している教員に何を求めているのかは、場合による。
だが、それでも自分は「耳をふさぐ」構えをデフォルトにしているということはときどき意識していた方がいいと思う。
たまったもんじゃないよ。本当に。
「ここにあなたが学ぶべき情報がある」というアナウンスが明示的にされていなくても、「学ぶべき情報」に引きつけられる感覚というのは、人間の成長にとって死活的に重要なのである。
研究者の魂のようなものですか。
(1) 教師が一人で教えるより、子どもたちがお互いに教え合う方が「手」が多い
(2) 勉強がわからない子どもの気持ちは、教師よりも子どもの方がよくわかる
(3) 他の子どもに教えることで教科についての子ども自身の理解は深まる
同じ人間同士であることが大事。
Commonな部分があることが大事。