ブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ブルバキ数学史〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ブルバキ数学史〈下〉 (ちくま学芸文庫)

ブルバキ数学史〈下〉 (ちくま学芸文庫)

wikipedia:ニコラ・ブルバキ

「学」の基本は、「本」を読むことだと思う。
では、どの本を読むのか?
どうやって読むのか?

「数学」というジャンルで、天才的数学者が、徹底的に、上の問題意識を追及したら、それは、「ニコラ・ブルバキ」プロジェクトになったのではないかと思う。


ニコラ・ブルバキ(Nicolas Bourbaki)は架空の数学者であり、フランスの若手の数学者集団の筆名である。その事は有名ではあったものの、裏方の数学者集団は秘密結社として活動し、ブルバキを一個人として活動させ続けた。1934年に解析学の教科書を編纂するプロジェクトが始まり、1935年にブルバキという人物が生み出され、のちに「1886年モルダヴィア出身」というプロフィールが与えられた。

ブルバキの業績

ブルバキの主な業績は、七千頁以上に及ぶ「数学原論」(遵ッl醇Pments de math醇Pmatique) の執筆である。もとは微積分学の現代的な教科書を書くことに当てられていた彼らの作業は、中途で肥大化し、教科書を書くという目的は捨て去られた。最終的に集合論の上に現代数学を厳密に、そして公理的に打ち立てることにその目標は向けられる。彼らはそこで、代数構造、順序構造、位相構造という三つの構造概念、フィルターなどいくつかの新しい概念や術語を導入し、現代数学に大きな影響を与えた。その完璧な厳密性と一般性を求める叙述はブルバキスタイルと呼ばれるようになる。
ブルバキの影響は年と共に次第に低下していった。その理由はいくつかあるが、ひとつには、彼らの抽象化はそれだけではあまり有用なものとならなかったせいであり、ひとつには、ブルバキの影響を受けた本が他にも出版されるようになりブルバキの出版する本の独自色というものが失われつつあったせいでもあり、またひとつには、重要なものと考えられるようになった別の抽象化、例えばカテゴリー理論などをカバーしていないためでもある。ブルバキのメンバーの一人アイレンベルグはカテゴリー理論の創始者であり、グロタンディークもカテゴリー理論を積極的に論じた。だが、カテゴリー理論を導入するには、それまでに発表されてきたブルバキの著作に根本的な修正を与えなければならなかった。そのため、カテゴリー理論についてのブルバキの著作は(準備はされていたが)結局のところ書かれなかった。

ブルバキの参加者

創立メンバーはアンドレ・ヴェイユ (Andr醇P Weil) 、アンリ・カルタン (Henri Cartan) 、クロード・シュヴァレー (Claude Chevalley) 、ジャン・デュドネ (Jean Dieudonn醇P) 、デルサルト (Jean Delsarte) の5人で、エコール・ノルマル・シュペリユール (ENS) の出身者だった。創立時の公式メンバーはその他に、ジャン・クーロン、シャルル・エーレスマン、ルネ・ド・ポッセル、シュレーム・マンデルブロー(Szolem Mandelbrojt, フラクタル幾何のベノア・マンデルブローの伯父)の4人がいた。マンデルブローを除く、すべてのメンバーがENSの卒業生である。ブルバキは50歳をその定年としていて、その後、ローラン・シュワルツ (Laurent Schwartz) 、ジャン=ピエール・セール (Jean-Pierre Serre) 、サミュエル・アイレンベルグ (Samuel Eilenberg) 、ロジェ・ゴドマン (Roger Godement) 、アルマン・ボレル (Armand Borel) 、ピエール・カルティエ (Pierre Cartier) 、ジャン・ルイ・ヴェルディエ (Jean-Louis Verdier) 、サージ・ラング (Serge Lang) 、ジョン・テイト (John Tate) 、ジャン・ルイ・コシュル (Jean-Louis Koszul)らが新たに加わり、アレクサンドル・グロタンディーク (Alexander Grothendieck) も一時期そのメンバーだった。
数学原論の執筆は1998年から止まったままだが、ブルバキブルバキ・セミナーの形で今でもその活動を続けている。

ブルバキの由来

ブルバキの名前の由来は、アンドレ・ヴェイユが聞いた友人のジョークが元になっている。ENSの学生だったころ、友人のラウル・ユッソンが新入生をだますために付け髭をつけて講義を始めて、最後には高度なレベルまで話を飛躍させ、架空の「ブルバキの定理」で話を締めくくった。一説では、ブルバキとは、普仏戦争で活躍したブルバキ将軍に由来するといわれている。この冗談(カニュラール)が気に入ったアンドレ・ヴェイユは、自分たちのグループで執筆した数学書をニコラ・ブルバキ名義で発表するようになった。ニコラと名付けたのはエリ・カルタンである。

下巻 微分積分学 55P-

ところで、数学において、発見と証明との間の溝を問題にせずに打ち捨てておくことは、まことによろしくない。恵まれた時代の数学は、心に浮かぶ着想をほぼそのとおりに書いているだけで、厳密性を欠くこともなく、ことがすむものだし、時には、言葉あるいは許された記号をうまく変更するだけをその代償として、首尾よくそうなる期待が持てることもある。
しかしそれとともに、あきらめて二つに一つの選択をせねばならないことも、またしばしば起こるのであって、その一方は、不正確ではあるが、おそらくは大きな力を潜めた一切公開の方法であり、もう一方は正確ではあるが、もはや考えをそのままに証明することはできず、考えをひねくりまわし、骨の折れる努力をささげた上で、やっと表現できるというような用法である。このどちらのみにも危険がないわけではない。ギリシャ人たちは、この第2の道をとったが、その数学の輝かしい全盛期のほとんど直後から突如として停滞が始まるのはローマ人の侵略によって、根源をたたれたという以上に、おそらくははこの第二の道をとったせいなのであろう。ただしそれとは別に、アルキメデスやアポロニオスの後継者たちも口頭で教育する際には、伝統の規範の形を守って、書物を発表する場合のような以上な努力を必要とは考えず、そこに多くの当たらしい結果を盛ることもできた。と示唆した説があるが、これはありえることではない。
ただいずれにしても、17世紀の数学者たちは、このような細心綿密な点にこだわって、足をとめたりはしなかった。この時代は、人々が、山のようにある新しい問題を前にして、
アルキメデスの書き物を根気直研究しながら、この人を踏み越えるべき道を捜し求めていた時代だったのである。ギリシャの文学や哲学のこれはというほどの古典はすべてイタリアにおいて、アルデュス・マヌティウスやその競争相手によって刊行され、そのほとんどすべては1520年以前に出来上がっていた。けれどもアルキメデスの初めての版がギリシャ語とラテン語で現れるのは、ようやく1544年、バーゼルのヘルヴァギウスの手によってであって[5a]それ以前にはラテン語の出版物でそのさきがけをするようなものはまったく存在しなかったのである。しかも当時の数学者たちは(代数学の研究に一生懸命であって、)、すぐにもその影響をうけいれるところではなかった。その影響がはっきりしてくるためには、数学者というよりは天文学者であり、物理学者であったガリレイケプラーの二人を待たねばならない。ところがこの時代から後1670年ころまでの間を通じて、無限小解析の創始者たちの書き物のの中に、アルキメデスの名ほど、頻々とあらわれてくるものはない。多くの人がこれを翻訳し、注釈をつける。ファエルマからバロウまで、すべての人がわれ先にとこれを引用し、その中にお手本と霊感の泉とをこもごも見出す。と公言しているのである。

やがて見るように、これらの言葉をすべて文字通りにとってはならないことは事実であって、これらの著作を正しく解釈するのに、このことはひとつの障害になっている。

歴史家はまた、この時代の科学界の組織化についてても、考慮しなくてはならない。それは17世紀かのはじめには、まだきわめて不備な状態であったが、その世紀の終わりごろには、学会の創設あり、学術雑誌の創刊あり、大学の確立は発展ありというわけで、学会の組織化も今日われわれが知っている状態にきわめて似たところまできている。しかし1665年以前には定期刊行物はぜんぜんなかったので、数学者たちが自分の仕事を知ってもらいたい場合は、文通によるか、書物を印刷する以外に選択の余地はなかったのである。出版の経費はうまく学術愛好家が見つかってその人地がもってくれれば別であるが、たいていは、自分もちであった、編集者で印刷業者でこの主の仕事のできる人はまれであり、多くは信頼のできない連中であった。しかも長い時間をかけ、こういう出版につきもののの無数の骨折りをへたあげくに、多くの場合、著者は果てしない論争に直面するのがおちであって、その論争たるや、必ずしも善意ではない反対論者のとの争いであり、ときには驚くばかりの辛らつな語調で行われるものであった。それというのが、無限小解析の原理そのものの中には全般的な不確実性があるために、相手の論議の中に弱点を見つけたり、あいまいで論争の余地のあるところをみつけたりするのは、どんな人にも少しも困難ではなかったからである。このような状況の下では、心の平静を願う多くの学者が、選ばれた何人かの人たち、特に、たとえば、パリのメルセンヌやすこしおくれてはロンドンのコリンズのような科学愛好家たちは、国境を越えておこなわれる膨大な量の手紙の往復の世話をしていた。手紙の抜粋はあちらこちらにつたえられたが、その中には、世話人たち自身が作り上げたばかげた内容が挿入されることもないわけではなかった。数学者の中には、「〜解法という型の「方法」といったものを持ってはいるが、一般的な概念や定義でないためにそれを定理の形にまとめることができず、また多少とも厳密に定式化することもできないという人たちがいて、彼らは、そのような「方法」をいろいろな特殊の場合について吟味する羽目においこまれていた。その方法の能力をはかるために競争相手に向かって、挑戦し、たいていの場合はそれとともに、自分の得た結果を暗号で発表しておくのが一番よいと信じていたのである。若い研究者たちはよく旅行をした。おそらくはそれは今日より多かったである。そして学者の思想は、多くの場合、その人みずからの刊行物によるよりも、その人の弟子たちの旅行のおかげで一段と広く普及したのであった。ただしそれがまた誤解を生むもうひとつの原因にならなかったのは言えない。

最後に、同一の問題を一群の数学者が同時に取り上げたということがある。そのひとおたちの多くは十分優れた人ではあったが、おたがいに、他人の出した結果については不完全な知識しかもっていなかった。そこで先取り権の宣言もまたはてしなくあらわれざるを得なくなり、さらに、剽窃の非難までがその上にくわわることもまれではなかったのである。このため歴史家が当時の学者たちの記録を探すには、その人たちの本来の意味での出版物ばかりでなく、むしろそれ以上に手紙や個人的メモのたぐいも、あさらねばならない。けれども、たとえばホイヘンスの手紙やメモがわれわれの手に保存されていて、ひとつの模範的出版にまでなっているのに対して、{169b}ライプニッツのものはまだ断片的な形でしか出版されていないし、その他の大多数の人たちのものは散逸してしまって、回復すべくもないのである。ただ少なくとも、そのような手記の分析にもとづいて行われた最近の研究によると、党派の争いに災いされていてささか不明瞭になっていたひとつのことが、まったく疑問の余地のないような仕方で明らかにされてきている。すなわち、この時代の代数学者の一人ひとりがそういう場所で自分の仕事について述べている際、その思索を展開するのに、人から受けた影響、受けなかった影響などにふれているところでは、彼らはつねに正直であり、真剣であり、しかもまことに誠実だということである。このような貴重な証言はたくさんあるが、上のようなしだいでこれらは完全に信頼して利用のできるものであり、歴史家はそれらの証言について、予審判事になりかわったような{疑惑一筋の}見方をとる必要はない。なおまた、かつて人々の取り上げた先取り件の問題も、その大部分はまったく無意味である。

上巻


再版にあたって

数学の基礎、論理。 集合論

論理の形式化
数学における真理の概念
対象モデル・構造
集合論
集合論の逆理と基礎の危機
超数学

記数法 組合せ論
代数学の進展
線形および複線形代数
多項式と可換体
整除性、順序体
可換代数学、代数的整数論
可換代数
2次形式、初等幾何学
位相空間
一様空間

下巻目次

実数
指数と対数
n次元空間
複素数、角の計量
距離空間
微分積分学
漸近展開
ガンマ関数
関数空間
位相線形空間
局所コンパクト空間上の積分
ハール測度、畳み込み積
局所コンパクトではない空間上の積分
リー群とリー環
鏡映群、ルート系

文献

訳者覚書
訳者あとがき
文庫版 訳者 あとがき

解題 ブルバキ数学原論 数学史