どんな内容でもいいから

続けていきましょうよ。
書いていきましょうよ。
考えながら、書いていけばいいのですよ。
内容などは、なにもきまっていなくていいのですよ。
そういう状態から、どれだけ、筆が動くかが勝負だと思います。
今日の天気がなんだっけからでもいいわけです。
今日、インターネットで、おもしろい話題はなかったけでも
いいわけです。
たとえば、今日は、ストリートファイターというゲームを原作に
した映画がDVDになってみることができるようになった。
という話が話題になっていました。
なんとなく、興味がひかれてしまいました。
そうそう、あのゲームたしか、なにかのアーケードでやった記憶が
あります。スーパーファミコンとかで、遊べたような、遊べな
かったような。
そんなゲームのキャラクターの世界観を映画にするみたいな。
そんなお話でした。
ゲームは、日本の生まれなわけですが。
キャラクターは、コスモポリタンなわけです。ロシアっぽかったり。
中国っぽかったり。アメリカっぽかったり、インドの香りがしたり。
そういうわけだから、映画の製作会社がどんなところになろうが、
原作それ自体は、無国籍料理のような部分がたぶんにあるゲームだから
まったく違和感がないという。
これは、村上ハルキの作品が、ベトナム人の監督によってメガホンが
とられるという違和感にくらべると、かなりの違いなのではないかと
思う。
だって、「ノルウェイの森」なんかは、あきらかに、日本、東京が
そこにあるわけですから。
ね、みたでしょ。
こうやって、その場その場、頭の中にあることを書いているだけで、
こうやって、いくらでも書くことって簡単でしょ。
別に、ストリートファイターを最近やったわけでもないし。
村上ハルキよんだことないけど、へっちゃらで、書くことが
できるでしょ。
こうやって、手を動かすこと、それ自体が大事ってことは、必ず
あるのだと思いますよ。
ねねねねん。そう思うのです。
そんなこんなで、テレビとパソコンのバランスを考えたりします。
さらに、新聞をどれくらいすみからすみまで、読むのかなんてことを
考えたりもします。
なんで、そんなことを考えるようになったかというと。
朝の授業があるときに、日経新聞を、読むということを二日連続で
やってしまうという、通常の学習ペースの時にはありえないことがあったからです。
なんだか、不思議な感覚になりました。
やばいですね。こんなことを書いてしまうと、私の生活の感覚が
疑われてしまいますね。
でも、事実なのだからしょうがありません。
それにしても、人間が進歩するというのは、本当なんだろうかとか。
そんなことを、いま新聞を読むということと、生活習慣というものに
ついて、考えるときに、疑問に思いました。
でも、一日が始まるということを、つよく実感するなという点では
いいなと思います。
朝のNHKのニュースなんかでも、同じことが言えると思います。
やっぱり、あれで、いろいろなトップニュースをみると、
そのひ、一日が始まるなと思います。
きっと、キャスターの人も、人のそういう生活の1こまに自分が
入っているということを、仕事のやりがいにしているのかなとか。
はい、そんなことを、ふと考えました。
こんなふうに、どんどん考えていることを、ブログに出していくスタイルを、思いついたのは、内田たつるという大学の先生のブログのスタイルに影響されたからだと思う。
どうやら、この人の、ブログのスタイルは、なにか、形があるようで、やはり、ないのかなとか。
そんなことを、思いました。
でも、ほとんど、毎日のようなペースで更新されているのに、
話題も豊富でよくがんばっている人だと思います。
さすが。人文学の大学教授って感じです。ここ最近、理系の方向に
色がついていたけど、
それとは、違う路線で、自分の売り込みをはかっている人を
みていると、自分の見せ方、出し方というのは、本当にいろいろと
あるのだなと心のそこから思います。
自分にとって、ベストな売り込み方。自分にとって、ベストな
見せ方。自分にとって、ベストなかかわり方。
これは、自分勝手という意味ではなく、
だれにでもあるはず、その人、その人のスペックが、一体、
パソコン全体のどの部品をやったら、パソコンの性能が一番
よくなるのかみたいな。
そういう感覚です。「最適化」という言葉で昨今いわれていることなのではないでしょうか。
自分のことについて「見切り」をつけるということでもあるのだと
思いますが。
ええ、そうですとも。人間、ある年齢になりましたら、「あきらめ」
というものが先にくるのですよね。ええ。そうです。とにかく
失敗がいやなのです。
もう、それだったら、体も時間も、とまっていればいいじゃないかと思うのです。
そうそう、思い出しました。今日、電車にのっているとき、
電車の中が空っぽだったのです。
空っぽだったから、座席でゆっくりとすごすことができたのです。
だから、余裕でした。
半分、だらりとしながら。
iphoneで、音楽を聴いていました。Perfumeを聞いていました。
そして、窓からは、サンサンと真夏の太陽の日差しが降り注いでいたのです。
僕は、思いました。
僕は、いま、幸せだよねって。
僕は、いま楽園にいるよねって。
僕は、こういう瞬間をずっとほしかったんだよねと。
そうそう、なんだか涙がでそうなくらい、そういうふうに
思ったんだよね。
今を生きたいのだよねと。
そうそう、光を浴びながら、私は、心のそこからそういう風に
思ったのです。
どこにもない、現在。
未来や、過去を生きるのではなくて。
現在を生きたいのだって。
現在を生きるハードルを低くしたいのだよね。
いくらでも。
そして、生き生きと、いきていきたいのでしょうと。
そんなことを、何回も、何回も頭の中で、復唱している自分が
いたりします。
自分は、自分といつまでもつきあわないといけないのです。
辟易することもあるでしょうよ。だから、私は、他の人と、
私がいるという事実について、どうも具合の悪さを感じるというか。
私が、自分に対して、もっているイライラ、気になること、
そんなことが、相手にも、わかってしまっていて。
どうにもこうにも、不快な目にあわせていたとしたら。
それは、それで、とても悲惨で、かわいそうなことでしょうと。
そんなことを、思ったりするのです。
そうすると、その人の前にいることもいやになってくるのです。
こわいですね。こわいですね。そうなってしまったら、
いろいろな人と、付き合うということが出来なくなりますよね。
だって、そうでしょう。自分のあら捜しなんてのは、誰にだって
できるわけですから。
だって、自分とは、自分とずっと一緒にいるわけですから。
そうなのです。消耗することはやるものではありません。
そんなことをしていたら、いつかかならず、しっぺ返しをくらうのにきまっているのですよ。
さてさて、こうやって、書いて書いて、そして、その合間にも
何を書こうかなと。思ったりするのです。
こういうスタイルは、小説や、物語を書くとか。そういうジャンルでも可能なのだろうか。いや、きっと出来るでしょう。世の中、
どんな「天才」というものがいるのかは、誰も、すぐには、結論を
だすことなんて、出来ない。
ああ、しまった。いま、ちょっとだけ、パソコンの手を、止めてしまいました。そうそのとき、なんだから、こうやってPCに文字を打ち込むのをやめてしまいたくなったりするのです。
だめですね。連続で、とにかく、文章を書くというのは、エキサイティングな体験ですね。でも、面白いですね。書いて、書いて、とにかく
書いていくなかで、自分の何者かが、正体をつかめるような気がするんどエス。きっと、そうだと思います。
言葉がもっている力というのは、そういうものなのだと思います。
そういえば、「言語化」という言葉を何度か登場させている筆者が、
面白い本を上梓していました。あれは、いつか読みたいと思っています。ただ、やはり、大変なんだよね。分量が多いから。
でも、研究対象として、フォーカスしたものが大変参考になったと
思います。形のない、もろい商売の形態のなかで、生き残るエンターテイメントなどが、興味しんしんです。
この本を書いた人は、大学院を理系で卒業してから、出版社での勤務も
経験されていたようでした。そういう人が、大学の学生運動について、
まるで、歴史家のような厳密な方法論によって、学生運動
全貌を、なるべく、原典資料にさかのぼって、解明しようと
している。たったひとりの、事故死の人をだしたケースなので、どれくらい、戦闘性、ドラマ性を、出そうと思ったとして。
そして、自然科学者の素養をもった筆者による分析資料が出たという
ことを、ここで、喜んでいいのだろうかとか。そんなことを思いました。
さて、そろそろ、ここらへんで、やめにしようかと思います。
落ちを考えるというか。そんなところまで、考えが及びませんでした。