BreakThrough
http://twin.blog.ocn.ne.jp/physicomath/2011/12/post_d1f9.html
どこで読んだかもはっきりしないし、誰が言ったことかも今ではわからない。つぎのようなことだったと思う。
それは「学問の真髄は学問の体系をつくることではなく、現在出会っているその分野の研究の困難を解きほぐしていける端緒を見つけることである」というのであった。
「端緒」というものは、きっと整理整頓された美術館や博物館のようなところに
あるのとは違う。
そういったところは、鑑賞には向いているが、当然のことながら「新発見」につながる
ことはない。
そこにある「知見」はすべて最近はやりの言葉でいう、「Curator」「学芸員」という
人たちの担当する領域だろう。
駒場か本郷のキャンパスで「考古学」を担当している先生は学部生の時、
ほとんと、キャンパスには足を運ばないで「掘っていた」ということを
どこかで書かれていた。
そして、キャンパスの外で掘って、見つけたものが、「業績」として評価される。
そして、それが「就職」に結びつく。
紆余曲折がモノを言う - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
今とは違い、学生は簡単には海外調査に参加できなかったので、当時外国考古学はもっぱら外国語文献を通して学習されていた。語学能力に乏しく、発掘経験もしてみたかった私は、すぐに都内の先輩が参加していた発掘調査に加えてもらったことも与って、次第に日本考古学を専門とするようになった。駒場でほとんど勉強らしいことをしてこなかったおかげで、本郷の学部には4年間在籍した。が、後半の2年間は発掘現場にほとんど住み込み、そこからたまに大学に通う生活だった。研究室の先輩方から、「大学で講義を聞くのもいいが、発掘に行って身体で学ぶことが重要だ。発掘現場には、他の大学からたくさんの学生が来ているから、武者修業してこい」と言われたことを素直に信じた結果でもある。その後幸運にも埋蔵文化財関係の専門機関に職を得、10数年の間多摩丘陵の大地の上で、酷暑の夏も凍てつく冬も発掘に明け暮れる日々を送り(暮れてからは毎晩エネルギー補給に勤しんでいたが)、12年前に東大に戻った。