「自由への道」

9月25日
Les chemins de la liberte
Jean Paul Sartre
読了。
L'age de raison
Le sursis
La mort dans l'ame

多読トレーニングの一貫として、フランス語の
リーディングをやってみる。
「語数」をカウントしていくということなので、
なるべく長そうな小説を選ぶ。
かつ、自分にとって共感が出来そうな作品を。
やはり、第一外国語の英語とは、違い、格段に
読みづらさが残る。
意味を瞬間的に取ることができる単語の数が
やはり、英語に比べると少ない。
この問題がクリアできると、逆に、ヨーロッパ語の
書籍へのアクセスももっと簡単になるのではないかと
思う。
iPhoneをはじめとするスマートフォンによって
色々な単語学習アプリが開発されているが、
この流れが新しい外国語学習の一つのスタイルを
作ることになるのかどうか、注目。
フランス文学の研究者の翻訳がこの作品には出ている。

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

翻訳の中身にまでは踏みいってはいない。
後ろの翻訳者による作品紹介のチェック。
実は、書店の立ち読みでなんとかしようかと思ったけど、
思ったより、まとまった量の著述があったので
購入。
Ivichという女性は、実は「不美人」
というのが、「正解」だったのだけど、
私の中では、「勝手」に「若くてかわいい」
で通していたことがわかった。
Borisというキャラは男性キャラだった。
どうも私は「女性」として読んでいたような気がしないでも
ない。
おそらく英語ではしないであろう「誤読」も、
フランス語のレベルではやってしまう。
ということは中身について何をいうのだということになる。
そう、その通り。
いや、エントリーを書くことで、次に読む作品に
ついて、しっかり書けるように、フランス語の単語の
暗記でもするかな。
この作品の翻訳者は
もちろん、サルトルという筆者が、この小説を
書いていく上で、おそらく参考にしたと思われる
小説も読み込んでいる。
サルトルや、周囲の関係者がみんな故人になった
時点で公開された書簡や、サルトルのパートナーと
いわれていたボーボワールという人が書き残した
生活記録のようなものなど。
そういった小説の「素材」になるようなものを
丹念に読み込んだ上で、この作品をフランス語から日本語に
移している。
これが、「文学研究者」の読みなんだなと。
外国語文学研究者の「職能」ともいえるものだと思う。
ここからは、なんだか週刊誌のあら探しみたいだけど。
小説に登場するいろいろな人物のモデル探しなどを
している箇所もあった。
サルトル本人が明言しているわけではないことだから、
あくまでも、翻訳者の楽しみということで。
にしても詳しいこと。詳しいこと。
このサルトルという人が書き残した本には
3000ページとか、700ページとか、そういうのも
あるらしい。
そして、これがなかなか翻訳がすすまない。
英語文献だったらこういうことはないだろう。
なにせ、本国でアマゾンのトップを飾ったちょっとあとには
もう、日本の大型書店で、その翻訳が出ているくらいだから。
フランス語で仕事を探すときの規模と、英語で仕事を
探すときの規模の違いのようなものを感じさせる。
にも関わらず、フランス文学のプレゼンスって、
日本の本屋では結構、大きいのかなと思ったり。

第1部 「分別盛り」
主人公の恋人が妊娠したことをめぐる
ドタバタが物語の中心になる。
第2部 Sursis
こちらは、第2次世界大戦が始まるかどうかの
ギリギリのところ。
すくなくとも、僕が読んだところでは、
「おそらく、戦争は回避されるのだろうと。」
小説の当事者があとで「勘違い」とわかる「安心感」
をもって、終わっていた。
そして
第3部 La mort dans L'ame
では、すでに、フランスの首都パリが陥落直前か
陥落している状態から始まる。
穴だらけで読んでいるけど、
登場人物のかなり個人的な話が中心だった物語が
その性格をどんどん変えていくという流れを鑑賞した。
Liberteという言葉がよく登場するけど、
そういうことを詮索している余裕がどんどん
なくなっていくように、状況が切迫していく感じ。
いや、そういう状況で、たくさんの人への抑圧のような
ものが強くなっていくから、逆に
Liberteを考えるなんて。
そんなテーマだったのかな。
読み進めて思ったが。
意味のとれない単語の数というのは、存外
限定されているのかもしれないということ。
今度、フランス語の原書にあたるときは、
読み進める前に、意味のとれない単語のすべての
ピックアップを先にやってみようかと思う。
これがどれくらいの数になるのかに興味をもった。
「ソーシャル」がいまはやりなわけだけど。
「外国語文献」にあたるときの
「単語調べの手間」を、削減するのに使えないかな。
「書くために読む」ということを
すこしやり出してから、なんだか書店に近づくのが
すこしつらい。
そうか。
ある程度、まとまった時間をインプットに使わないと、
いざとなったときに足腰が動かないのだなと。
別に「Writing」には限定されるわけではないけど。
もしも、出版などに興味をもつとしたら、
これに「スピード」の問題が加わる。
東日本の震災が起きたときに、どれくらいの早さで
原発や震災に関連する情報の書籍が出たかどうかとか。
ブログの更新をある程度やっているとそんなことにも
関心がいくようになる。
サルトル一つとってもそうだ。
まともに、ブログであれやこれや書いてみたいと
思ったら、やはりそれなりの準備期間がいる。
もし、そのコストが負担できないなら、最初から
タッチしなければいい。
本を読むということにも
「遊びのモード」「アウトプットのモード」の
二つがあるのだということを思い知ることになる。
これは、学習というもののあるべき姿を探す上でも
忘れてはいけない教訓だと思う。
受験勉強から、こういう形の「学び」への切り替え
というものが、スムーズにいくかどうかというのが
今後の一つの重要な課題だと思う。
読んだ本にどれだけのアウトプットを
出させるのかということも、課題だろう。
たとえば、どの文章を引用するのかとか。
これが外国語の文献だと、日本語の文献よりも
面倒だし。いろいろとややこしい。
「書き物」を作業にするということの、苦労のような
ものもしれてくる。
まずは、字数をどんどん埋めるということからはじめたけど、その地平線の先に広がっていたのは
ジャングルだったみたいな。

ちょっと作品の中身についても。
翻訳者が指摘したこと。
「自由への道 その1」384ページから385ページ

これらの人物に親はいるのか?
マチウとジャックの兄弟には親がいるのか?
ダニエルは? ブリュネは? ローラは?
誰にも家族の影がない。
家族はすべて背景に押しやられている。唯一、IvichとBorisには両親がいることが明らかにされているが、その両親が舞台に姿を現すことはない。この小説は非家族小説、ないし反家族小説なのである。

家庭教師をやっているので、この記述は
響いた。
「家族あっての子育て」
というのが、私の中の基盤というか、生活の前提に
なっているので。
事実の問題として、どういう家庭で生まれ育ったのか
ということが、その子供に与える影響力の大きさというか。
僕は、遅れて社会人になって、こういう部分に鈍感
だったのではないかなと思った。
サルトルがこの小説を作ったとき、
登場人物への「家族の影響力」を取り去っている
というのは、本人が確かに自覚したかどうかは
知らないけど、「結果的」にある種の「規範」を
示したのかもしれない。
「家族が、その中で生まれ育った本人にもつ影響力」
というのは、その本人にとって100パーセントコントロール
できることではない。
「子供は親を選べない。」
この「影響力」の事実上の、決定的な存在感を
消し去ることは、いわれてみると、これ以上ないくらいの
「不自然さ」を与える。
しかし、「人間は、自分の意志とは無関係なことに拘束
されるよりは、そういう無関係なものからは「自由」で
いたほうがいいはずだ。」
という問題意識を、文学的に伝える手法として
たしかに斬新だったのだろうか。
そんなことを思った。
僕は、気がついたら、世の中をみるときに
「家族」「生まれ」「育ち」というものを中心に
物事をみるようになっていたなと。
翻訳した人の指摘を読んで、はっと気がついた。
このことの自覚は、私にとって、今後重要に
なるかもしれない。
「家族の支援」というものから隔離されていて
さびしい「個人」というものを思い浮かべるのか。
「家族の拘束」に影響されず、恋人を選ぶのも、
社会的な行動をとるときの仲間を選ぶことも「自由意志」
によって実行する「格好のいい、かっちりした個人」
を思い浮かべるのか。
サルトルは後者だったのだろうか。
そして「非家族小説」
としてこの「自由への道」を読んだ時、
一番、読者に響くのは「分別盛り」なのかもしれない。
恋人との付き合い。
妊娠中絶。
借金。
どれも、「現実的」には真っ先に家族が絡んでくる
ことだから。
そして、サルトルの作品には、その「現実的」な要素が
きれいさっぱり消去されているのだと。
小説が一番、小説らしさを発揮しているといえるのかも
しれない。
もちろん、「戦争」という「事件」の時だって、
「家族」という要素はあるわけで。
そんなもん、朝の連ドラでこの時代あつかったもの
みたら、もんぺを着た母親が、兵隊のユニフォームを着た
息子さんを、駅で送り出すシーンがあるわけで。
でも、どちらかというと、「家族」は後ろのほうに下がる。
たしかに、おもしろい読み方があるのだなと。
これが「文芸」でっせと。