wikipedia:イタロ・カルヴィーノ

マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)

マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)

授業にて、取り扱った。
したがって、断片しか読んではいない。
でも、読後、家路につきながら、この作家はどんな人なのだろうと
ずっと考えていた。

子供とずっと接していると、こちらが説明したいことがうまいことがいかないという
ことはよくあることです。
かといって、わからないなら、わかる人だけが、ついて来いとは、立場上いえないのです。
ですから、「こういうふうに、説明したけど、あの子にちゃんと理解が出来ているのかな」
という気持ちの悪い意識を、常に持ち続けることになります。

そういう生活が長く続くと、子供に伝えたい内容について、ハードルをどうやって下げたらいいのかという
意識にたどり着きます。
もうすこし、ありていにいいますと、「とにもかくにも必要最低限のことだけ伝わればいい」
こういう発想になります。
「余計な、前提知識が必要になるようなことを話題にするのは、ご法度にしたほうがいい。」
これは、たとえば、大学という空間のように、話をしている人と、話を聞いている人の間の知的レベルの格差が
あまりない場合は、思い悩まないでいい問題だと思います。
お互い、議論を進めていく上で、必要になる前提知識のハードルがどれだけ高くても、いざ、議論開始という
段階には、お互いに「宿題」をすませているだろうという、「幸福な前提」をあてにできるからです。
それの「前提」がどれだけ確かなものなのかは、検証が必要かと思いますが。

このカルビーノ氏の文章に触れたとき、
表現において、素人の人間が、もつそういったハードルが、やすやすと超えてしまうような
凄みを感じました。

「こうやって、表現すれば、これだけいろいろなことが伝わるでしょう」と。
とても、優雅なダンスをみたような気がしました。

いや、読む子供に、実はつたわっていなくても、いつか、「理解した」という瞬間がきたとき、
カルビーノ氏が、この文章で描いた映像世界が、その子供の頭の中に、(いや、思い浮かんだときは大人になっているでしょうけど。)
優美にうつるのかもしれません。