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21歳の時、映画の脚本家として仕事を始めたが、当初は家賃も払えず、野宿したり友達の家に転がり込んだりなど極貧生活だったという。1928年に父親がベルリンで腸閉塞で亡くなる。ニューヨークで事業に成功したビリーの兄に会うためのアメリカ旅行からの帰路で、息子のビリーを訪ねた折の出来事であった。
1929年、『悪魔の記者』ではじめて名前がクレジットされる。また同年、当時はまだアマチュアだったロバート・シオドマク監督の『日曜日の人々』に参加。スタッフのほとんどが映画製作未経験者だったものの、観客にも批評家にも賞賛され、注目を集める。ちなみに本作の撮影助手をつとめていたのが、のちにワイルダーと並ぶ名監督となったフレッド・ジンネマンだった。
『日曜日の人々』の成功で、ワイルダーはドイツ最高の映画会社ウーファへ招かれ、『少年探偵団』(1931年)や『街の子スカンボロ』(1932年)といった脚本を執筆、いずれもヒット作となった。
しかし、1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが台頭してきたため、ユダヤ系のワイルダーはフランスへ亡命。亡命のきっかけはナチスによる共産党の仕業に見せかけたドイツ国会議事堂放火事件で、まだ議事堂が燃えている間にワイルダーは急いで荷造りし、その当時交際していた女性と共にドイツを発ったという。
同じくドイツ移住組の俳優ピーター・ローレや、作曲家のフランツ・ワックスマンらとパリ市内のホテル・アンソーニアで共同生活をしながら、労働許可証がないので仕方なく偽名で脚本を執筆していた。またこの時、ダニエル・ダリュー主演の『悪い種子』で監督デビュー、1934年にはコロムビア映画の製作者でドイツ時代の友人だったヨーエ・マイの招きで、まだワイルダーは英語が喋れなかったものの、ワックスマンらと共にアメリカ合衆国に渡った。
ロサンゼルス郊外の豪邸を舞台に、サイレント映画時代の栄光を忘れられない往年の大女優の妄執と、それが齎した悲劇を描いたフィルム・ノワールである。
公開当時から批評家たちの評価も高く、同年のアカデミー賞11部門にノミネートされたが、対抗馬であった『イヴの総て』相手に苦戦し結局3部門での受賞に留まった(『イヴの総て』は計6部門受賞)。現在ではアメリカ映画を代表する傑作と見なされており、1989年に創立されたアメリカ国立フィルム登録簿に登録された最初の映画中の1本である。
『サンセット大通り』ではハリウッドの監督、名優達が彼ら自身を連想させる役柄を演じており、そのことが映画にリアリティーを与えている。